革命指導者が司法機関最高評議会および諸司法機関の長に向けて行ったスピーチ
革命指導者は、偉大なるジャマヒリアの司法機関最高評議会メンバーと会見した際、重要なスピーチを行った。彼はその中でリビア国民に対し、特別人民裁判所等の特別裁判所の廃止を呼びかけた。また、大衆主権の実現前に革命指導評議会が制定した刑法を廃止し、通常の刑法や刑事手続きに戻るべきであると訴えた。
また、アビ・セリム刑務所で起こった事件の迅速な捜査を要求し、令状なしの逮捕や裁判抜きの処罰等をやめるよう呼びかけた。
彼は、拘留者や囚人が家族や弁護士と面会する権利を奪うべきではないと述べた。拘留者や囚人は人民弁護団以外から弁護士を選ぶ権利を持たねばならない。囚人は引き続き、特別の機会には刑務所を出て家族を訪問する権利を持たねばならない。
革命指導者はリビア国民に、拷問禁止条約の速やかな批准を訴え、まだ批准していない諸国の政府を批判した。また、拘留者を弾圧したり、警察や刑務所関係者による弾圧を許して処罰しない国々を非難した。
指導者は、一部の国の政府が自国の市民や外国人をそのように扱うことに対して、心から遺憾の意を表し、その悲しい現実を強調したアムネスティ・インターナショナルの報告書を出席者の前に提示した。彼はリビアの人民司法委員会に対し、アムネスティ・インターナショナルをはじめとする人権団体に協力するよう呼びかけると共に、これらの団体の努力を賞賛した。また、世界初の大衆国家であるリビアが世界レベルで人権擁護に先駆的な役割を果たすべきだと強く訴えた。
スピーチの内容は以下のとおり。
神の名において:
ジャマヒリア制度における優秀な法律家である皆さんとの会見にあたり、私の目的は、熟慮を要するいくつかの事柄について述べることです。革命初期に、その段階の必要に応じて制定された法律があります。政治家や法律家なら誰でも、革命には荒療治が付き物だということを承知しています。そうした手段は、戦時立法のように、時限的かつ例外的でなくてはなりません。恒久的であってはならないのです。さもないと、正義が否定されることになります。それらは見直さなくてはなりません。われわれが望んだのは、リビアが革命によって、自由、大衆民主制、そして弾圧や不正のない国家の手本となることでした。しかし、今述べたような手段のせいで、リビアは従来からあるタイプの国家になってしまいました。独裁国家、警察国家とさえ言えるかもしれません。非常に残念なことです。それは、われわれ本来の姿ではないし、なりたい姿でもありません。
われわれは、たまたま第三世界、“遅れている”という烙印を押された地域にいます。世界にとって、ここで起こったことと、スーダンやイラク、マリ、インドネシアやアルゼンチンで起こったクーデターを区別するのは難しいことでした。去年起こったことはすべて、表面的な出来事でしかありません。それらによって、様々な弾圧や不正がもたらされました。
これは至極当然のことです。そうした国々では軍の将軍たちが、よくこの種の行動に出ます。われわれリビア人に言わせれば、このリストにわれわれも入れられるのは不公平です。われわれはクーデターを先導した将軍ではありません。われわれが先導したのは大衆革命で、そのために軍隊を利用したのです。つまり、われわれには信条とイデオロギーがありました。リビア革命は、第三世界の出来事の修正でした。軍事行動も取ったし、多少の不正を伴ったのも確かです。
しかし、非常に早い段階で、権力は国民に返還されました。人民委員会が創設され、彼らが人民会議に法案や政策案を提出します。われわれ革命指導者は、国民が自分たちで委員会などの組織を立ち上げ、それらが大衆社会の実務を処理していくところを目にしています。
われわれは、国民の意志に反する法律を制定する気は全くありませんでした。しかし、時限的だったはずの措置の一部は、なぜかいまだに残っています。たとえば人民裁判所は、革命の最初に設立されました。第三世界の国ではどこでも、革命やクーデターが起こると必ず、“革命裁判所”という裁判所が開設されます。そこでは軍人や将軍が裁判官です。
シリアやイラクも、革命の当初はそうでした。エジプトさえもです。われわれの場合は、その名称すら使いませんでした。先ほど述べたとおり、われわれの運動は、他の第三世界の国々で起こったすべての事の修正です。われわれがそれを“人民裁判所”と呼んだのは、あの革命が大衆革命、人民の革命だったからです。人民裁判所は軍人1人、警察官1人、聖職者1人、それに民間人の法律家で成り立っていました。第三世界のこの種の裁判所が皆そうであるように、若い士官で構成することもできましたが、そうしなかったのは、人民の裁判所であることを確実にしたかったからです。ともかく、リビアではこの裁判所が2000年まで存続しました。これは本来、あってはならないことでした。戦時中でも、無政府状態でも、社会が激動しているわけでもないのに、なぜ特別裁判所が必要なのでしょう? 人権団体やアムネスティ・インターナショナルがこの問題を取り上げるのも、もっともです。この裁判所の規約は4回にわたって改正されました。これは人民裁判所が、もはや新たな段階にそぐわないという証拠です。
人民裁判所は本来、革命前に権力を振るった君主制時代の官吏を裁くための制度でした。彼らの裁判が終わった時点で廃止すべきだったのです。しかし不幸なことに、そうはなりませんでした。
われわれは人民裁判所の改革や、権限の強化を始めました。あきれたことに、自分の畑を売った男が人民裁判所に送られたことがありました。なぜでしょう? 畑は国家から与えられたものなので、売るのは違法だったのです。別の人は、なんと車を街灯にぶつけたかどで人民裁判所に送られました。街灯は公共財産なので、それに衝突するのは違法なのだそうです。
これは茶番です。お笑い草です。人民裁判所に、そのような些細な事件の審理を依頼して良いのでしょうか? 人民裁判所の規約が4回改正されたのは、権限を強化して、このような新たな事件に対応できるようにするためでした。私の願いは、皆さんが人民裁判所を廃止してその機能と権限を通常の裁判所に移管するための法案を作成し、人民会議に提出することです。
われわれはアメリカではありません。彼らは、自分たちはテロ攻撃の対象にされたと言って特別法を制定し、特別裁判所を設置し、内務省を復活し、グアンタナモを使い、臨時の司法措置を取りました。彼らは、「われわれはテロに対する世界戦争を戦っている。だから外敵に立ち向かい、戦争に勝つために特別措置を取る」のだそうです。しかし、リビアのように落ちついて安定した国に、なぜこんな特別措置が必要なのでしょう?
わが国に権力争いは存在しません。権力は人民の手にあります。国民男女が法律を作り、決定を下し、国の政策や予算を決めるのです。内戦中でもなく、対外戦争もしていません。権力争いもありません。わが国の社会は、言語的にも宗教的にも民族的にも均一です。神の恵みで、このように落ち着いて安定し、満ち足りた国になっています。なぜ例外的措置に頼らねばならないのでしょうか? 中国がそうしたからでしょうか? イラクがそうしたからでしょうか? シリアがそうしたからでしょうか? 誰がそうしたのか私は知りません。彼らには彼らの問題があります。アメリカやイギリスはそうしましたが、それは彼らが戦争状態にあるからです。彼らは恐れおののいています。おびえているから、ちょっとした緊急事態にも過剰反応し、例外的措置に走ってしまうのです。われわれは、そんなことはありません。仮にアメリカがあらゆる種類の例外的措置を実施しても、われわれは同じことはしません。社会にはそれぞれの事情があります。わが国はよくまとまって安定し、落ち着いた、全く問題のない社会です。なぜ例外的措置に頼る必要があるでしょう? 真似をしたいからですか? 昔、「アラブ人の共産主義者は、モスクワで雪が降ると、アデンにいても傘を差す」というジョークがありました。共産主義者は、生まれてから一度も雪を見たことがなくても、ソ連の真似をしたがったからです。
私が言いたいのは、人民裁判所はもはや必要ない、ということです。もう役目を終えた制度です。われわれは、設立した人々の骨折りや、1951年10月から1969年まで、リビア国民を搾取した者たちの責任追及に努力したことは評価します。しかし、通常の手続きを取る普通の段階を始めるべきです。1969年に、革命指導評議会は革命擁護に関する法律を採択しました。これは、当時は理にかなったことでした。
しかし人民の権利が確立した今日、もはや革命擁護という話は通用しません。通用するのは、人民の権力の擁護や、わが国の基盤となっている大衆による制度の維持という話だけです。採択された当時には必要な法律でした。状況が流動的で予測不能だったからです。米軍基地が5つと英軍基地が多数ありました。
(リビア東部の)キレナイカはイギリスに占領されていました。イタリアからの植民者が2万人いて、リビアのあらゆる経済活動を牛耳っていました。旧体制の残党がまだ国内外で活動しており、革命打倒で共謀する可能性もありました。ですから、革命に対するどんな妨害も処罰できるように、革命を擁護する法律が必要だったのです。
その後、リビアは独立を果たし、軍事的にも経済的にも植民者という点でも、植民地制度に幕を下ろしました。革命指導評議会は廃止され、人民の権力が取って代わりました。共和制はジャマヒリア制度に変わりました。革命を擁護する法律の存在や、その適用を続ける正当な理由は、もうありません。直接投票による大衆民主主義というわれわれの制度を守るには、特別措置や例外的措置に頼らなくても、他の法律で十分なはずです。
人民裁判所の設立は、革命の安全のための特別検察の創設につながりました。今では普通の裁判制度と普通の検察があるのに、なぜわれわれは特別検察を存続させているのでしょう? 革命当初から、特別法を制定せず特別な刑罰も設けない、というやり方もできたはずです。旧法は革命開始とともに効力を失ったと見なすことも可能でした。われわれは、こうした法律なしで国を治めることもできました。
しかし私は、革命を擁護する法律の制定と、新たなステータスが必要だと考えました。特別措置は、その性質上どうしても恐怖を生み、弾圧を引き起こします。特別裁判所や軍事裁判所を設立し、弾圧的な法律を採用した第三世界の国々は、どこも紛争や動乱を免れず、安定化は達成できませんでした。
こうした法律は解決策になりません。真の解決へのカギは、人民と社会の性質を変えることです。普通はどんな社会にも、個人や政党や部族や血族や社会階級の間に権力争いが存在します。解決策は、法律の中にはありません。思い切った方法で問題を解決するためには、権力争いに終止符を打つことが必要です。権力争いをする者を脅かすことではありません。すべての人々が権力を行使するようになれば、権力争いはなくなります。今のリビアのような状況です。リビアでは成人男女全員が権力を行使するので、権力争いは起きません。意見がある人は誰でも、その意見を人民会議で発表し、他の人の説得を試みることができます。特別検察はもう不要なのです。
政党活動を処罰する法律もあります。この考え方そのものには異議はありません。私が個人的に反対なのは、そこに含まれる厳しい刑罰です。また、人民の権力が確立したことによって、そうした行為の可能性がなくなったという事実もあります。もし誰かが政党を結成しようと言い出したとしても、何の役に立つでしょう?
国民が自ら物事を切り回す直接民主制の国で、政党に加入したがる人はいません。政党や政党政治は完全に時代遅れであり、博物館が似合いです。今は大衆の時代です。世界には、社会問題を解決したことなど一度もない政党があふれています。もし私が政党を作ったら、単に権力と富が欲しいからだと思われるでしょう。
国民は、私の党に投票して自分たちを支配させ、権力と富を独占させるべきかと自問するでしょう。どこの国でも、与党の恩恵を受けるのは、その党のメンバーだけです。党内ですら、メンバーは、党の権力を乱用したとか、金を独り占めしたとか、党員を無視しているとか言って、党の中央委員会を批判します。ですから結局のところ、政党はせいぜい5人ほどの幹部で成り立つことになります。その幹部ですら大抵、独裁的だとか自分たちを軽視しているとか言って、党首を非難します。これがブレジネフやゴルバチョフやスハルトに起こったことです。なのに、彼らはどんな党の話をしているのでしょうか?
党は何もしません。国民が不満を抱えて街頭で抗議しても、党員は姿を見せません。人々はイラク戦争や失業に反対し、貧しい人々が街頭でデモを繰り広げます。暴力が広がっても、党は何もしません。人民は、今の時代に政党を結成したりはしません。わが国の国民は、自ら権力を行使しています。
なのになぜ、1政党や1グループに権力を手渡して、その支配を受ける必要があるでしょう? たとえばレバノンを例に取りましょう。レバノンは多くのコミュニティーで成り立っています。政治体制は宗教色が強く、大統領はキリスト教徒、首相はスンニ派のムスリム、内務大臣はドゥルーズ派でなくてはなりません。70年代か80年代に、名前は忘れましたが1人の将軍が軍を動かし、ラジオ局に行って、軍が全権を掌握したと声明を出しました。しかし翌朝になると、何も変わっていませんでした。国会は相変わらず宗派別の構成でした。将軍は裁判にすらかけられませんでした。
ただ、何のつもりかと訊かれただけでした。コミュニティーと宗教に基づくシステムが、政府の基幹です。キリスト教徒をムスリムに変えたり、ムスリムをキリスト教徒に変えたりできますか? レバノン人は、軍事クーデターなど考えもしません。国会にも内閣にも、すべてのコミュニティーの代表がいるからです。わが国には、人民会議と人民委員会があります。政党を何に使うのでしょう? われわれの制度に政党の出番はありません。したがって、政党活動を重視する必要もないのです。
政党活動を阻止することや、厳罰を課すことは可能です。しかし実際は、政党は世界中で終わっています。政党制というこの古いモデルでは、もはや新たな現実を表現できないのです。個人や政党や血族による支配という古いモデルは、すべて終わっています。われわれは政党の話ではなく、社会制度の基盤をどう安定化するかという話をすべきです。あらゆる行動や行為や活動は、この基盤を損なわないようにしなくてはなりません。このことは、民主主義を標榜する国々も含めて、世界のあらゆる憲法の根幹となっています。たとえばフランスの憲法を見てください。人権や市民の権利について語っています。こうした権利が尊重されるためには、憲法が守られねばなりません。
フランス市民は、憲法に反する行動を取ってはなりません。憲法に違反すれば、社会や体制全体との衝突は避けられず、裁判にかけられて投獄され、厳しい処罰を受けることになります。彼らが憲法は守らなくてならないと言うように、われわれは、すべての行動の目的は大衆の制度である人民の力であるジャマヒリアを守ることだ、と言います。社会制度を侵害することは誰にも許されません。また、主権在民の原則もあります。主権はもともと国民のものであり、誰も国民の同意なしに行使することはできない、ということです。主権は自分だけのものだと主張することは、誰にもできません。
世界の憲法はすべて、主権は国民にあり、国民の代表を通じて行使されるとうたっています。でも、なぜ代表を通じて行使しなくてはならないのでしょう? 国民は自分の主権を直接行使できます。なぜその権利を少数の代表に譲らなくてはならないのでしょうか? われわれの制度では、それが神聖かつ犯すべからざる大原則です。これに挑戦する者は、われわれの社会の基盤そのものに挑戦しているのであり、社会制度にとって有害です。だから、法律で許される最大限の罰を与えねばなりません。
世界中どこでも、人々は、社会の害にならない限り、好きなことをする自由があります。わが国でも同じです。ジャマヒリアや人民の権利への攻撃は、社会制度全体への攻撃です。これは議論の余地のない事実です。ドイツ連邦共和国の民主憲法は、ドイツ人は事前の届け出なしで集会を行う自由を有する、と定めています。ただし、穏やかで武器を持ち込まない集会である限りは、です。公共の場での集会には、事前の届け出が必要です。これが意味するのは明らかに、ドイツなどの民主主義国でも、特定の行動は法に従ってのみ許される、ということです。フランスも同じです。フランスでは、反共和制の組織に結社の自由はありません。
イスラム教国の一部では、一部の人々が団体で、ある特定の儀式を始めました。これは法律違反です。彼らは、自分たちの宗派のイスラムはわれわれの宗派より優れていると主張し、祈りのルールまで変更しています。自宅やモスクではなく、公共の広場で祈るのです。
これは、その社会の宗教制度全体を危うくしています。イスラムには、このような変わった祈り方を取り入れることは想定されていません。40日間断食をしたいという人がいたら、それはその人の選択です。本人が望むなら一生断食しても、誰も止めません。しかし、団体や組織を結成して、そんな考えを公然と人に勧めるのは、宗教の根幹に対する攻撃です。そんなことは、世界中どこでも認められません。フランスでもスイスでも認められないし、リビアも絶対に認めません。フランスは、公立学校で宗教的シンボルを見せることを法律で禁止しています。十字架もダビデの星も、ムスリムが頭にかぶるスカーフもです。自宅や礼拝所で信仰を表現するのは自由だそうです。
同じ社会の中で、コミュニティーを分け隔てすることは認められません。特定の宗教の信者ではなく、フランス人と見られるよう心がけるべきです。フランスはモスクでも教会でもありません。非宗教国家です。
なぜスカーフを禁止するのかと質問されて、彼らはこう答えました — 学校では、教師は教師としてのみ見られなくてはいけない。特定の宗教の信者と見られれば、他の宗教の信者と対立する可能性がある」公共機関では、人々はフランス人としてのみ見られなくてはならず、信仰は心に秘めて、自宅や礼拝所で表現せねばなりません。そうでなくては、国が宗教ごとに分裂されてしまうでしょう。リビアでは、われわれは皆、スンニ派イスラム教徒です。なぜ新たな儀式や考え方を取り入れたり、他派との区別のために新しいマークを使ったりする必要があるでしょう? これを認めるわけにはいきません。社会全体を危うくします。誰でも、街角に立って善行や敬虔なふるまいを説き勧めることはできます。しかし、秘密の地下組織を作る目的は何でしょう? 社会全体を危うくするためですか? これは世界中どこでも、絶対に認められないことです。
ドイツ人は憲法の下で結社の自由を有していますが、違法な行為や政治制度に反すること、社会の調和を乱すことを目的とした団体を結成するのは禁じられています。このことは、ドイツ憲法に含まれています。しかし、ドイツを専制国家、独裁国家と非難することができるでしょうか? ドイツには、政治制度や政府機関についての合意があります。
それらを危うくすることは、誰にも許されません。もしあなたがドイツで、国を支配したり、権力を人民に手渡すために革命委員会結成を呼びかけたりしたら、あなたは社会を危うくし、違法行為を犯していることになるのです。もう1つ、非常に明快な条項があります。基本的な民主制度を危うくする目的で表現の自由を乱用する者は、こうした基本的な権利を剥奪される、というものです。たとえ電話1本でも、彼らが自由な民主制度と考えるものを脅かす目的でかけたら、法的責任を問われ、憲法で保障された権利の喪失につながります。
私が言いたいのは、近代的な民主国家と見なされている国でさえ、社会制度や社会の基盤を守るための法律はある、ということです。社会とは、複数の柱に載った建物のようなものです。その柱を倒す権利は誰にもありません。そんなことをすれば、建物全体が崩れます。いかなる名目 — 宗教でも政治でも経済でもイデオロギーでも — があろうと、制度の基本的構造にみだりに手を加えることは許されません。
ドイツでは、連絡や信書、電話などの秘密も憲法で保障されています。しかし、そのどれかが基本的な自由民主制を害するために使われたら、その保障は無効になります。基本的人権を剥奪されるのです。つまり、その人の電話は盗聴されることになります。電話を何に使うかは個人の自由です。他人に嫌がらせをしたり、下品な言葉を浴びせたり、物を盗むために使うことも可能です。しかし社会制度を攻撃するために使ったら、プライバシーの権利はなくなります。ペットの声すら盗聴されるでしょう。財産を所有する権利も、基本的な自由民主制を尊重する限りという条件付きです。もしあなたの家や店や車や畑が、社会制度や政治制度を害する目的で使われたら、あなたはその財産を失うことになります。西洋の国々では、容疑者は電子制御の位置探知装置を体に埋め込まれ、終日監視下に置かれます。その人の行動が社会を脅かすからです。複数政党制でも、こうしたルールは守らねばなりません。裁判所は、政党の活動が基本的な自由民主制や共和国の存続にとって脅威となれば、その政党に違憲判決を下すことができます。
したがってドイツでは、国の基本制度と相容れない政党を結成することはできません。政党制度の規制や変更を呼びかけたら、独裁的だと非難されるでしょう。
彼らは、自分たちには民主的で憲法に基づく秩序がある、と言います。この2つは同じコインの両面です。社会と社会制度は神聖かつ犯すべからざるものであり、みだりに手を加えてはなりません。法律は、社会と社会の秩序を守るために存在します。リビアの秩序は、人民の権力のジャマヒリアです。信仰はイスラムで、信条は大衆社会主義です。これらは社会を支える柱です。その柱を揺さぶったり、危うくしたりすることは禁止されています。
ドイツでは、やたらに政党を結成することはできません。たとえばオーストリアのハイダーは、政党を作ったとたん、極右のファシスト政党だ、政権には就けないと言われました。フランスでも同じことが起きました。ですから、政党結成は自由とはいっても、彼らも既存の秩序を乱す政党の誕生は許さないのです。自由で民主的な制度でも、その制度を壊して代わりに別のものを作ろうという試みは許されません。
今、私の前にドイツ憲法があるのですが、別の条項に礼拝の自由があります。礼拝の自由は、公共の秩序や公衆道徳に反しない限り保障されています。スイスでも、公序良俗に反する信仰の実践は禁止されています。人々が亡命を求めてくるスイスでも、公共の秩序や社会の平穏を守り、教会による人々の権利の侵害を防ぐ措置が取られているのです。スイスのキリスト教会は、人々が国の命令を批判する権利を損なうことはできません。
誰かが、ドイツ語をスイス唯一の公用語にしようと呼びかけることは、できるでしょうか? もちろんできません。公用語はフランス語・イタリア語・ドイツ語とすると、憲法が定めているからです。スイス領では、連邦の承認なしに大司教区を新設することはできません。連邦政府は、ラジオやテレビなどのマスメディアを規制するルールも制定します。メディアの仕事は、視聴者に教養と娯楽を提供することですが、その際、この国特有の事情や各州の特別なニーズに配慮しなくてはなりません。スイス特有の事情に配慮しないラジオ局や新聞社は活動できません。スイスでは4民族が1つにまとまって暮らしています。ドイツ系、フランス系、イタリア系、フラマン系の人々です。フランス語圏やドイツ語圏の独立を呼びかけるラジオ局の開設は禁止されています。スイスのメディアは、公共の秩序と社会の特色を遵守しなければなりません。メディアの自由と独立は、私が今言った条項の制限内で保障されています。スイスですら、メディアに対する規制があるのです。
スイス市民は政党結成や結社の自由を有します。ただし、目的や手段が合法で、国家にとって脅威とならないことが条件です。法律や条例には、こうした条件への違反を防ぐために必要な手段が明記されています。
スイス市民は、外国から何も受け取ることができません。贈り物を受け取っても、勲章や金銭をもらってもダメです。特定の国への訪問も禁じられています。
皆さんは、アブドゥル・ラフマン・アル=アモウディのケースを耳にされたことがあるでしょう。彼はリビアを何度も訪問したかどで、100年の刑を言い渡される可能性が大ですが、スイス市民は、社会制度の脅威とならない限り、政治的権利を奪われることはありません。第三世界の愚か者がスイスに行って亡命を求め、その後でスイスに前代未聞の要求をする、という例が起きています。もちろん、そんな輩は直ちに強制退去です。そういう者は、スイスでは国の制度を傷つけても許されるという思い違いをしているのです。
世界が現在直面しているテロの危機に対する指導者の分析
この問題には2つの側面がある。 1.アメリカに対する攻撃。政治の首都であるワシントンDCと経済の中枢であるニューヨークが共に、前もって綿密に計画され、きわめて暴力的で…