最後の預言者ムハンマド(彼に平安と祈りあれ)の生誕記念日にあたり、敬愛なる指導者がカンパラ市において、各国首脳や世界中から集まったムスリム(イスラム教徒)をリードして祈りを捧げた際に。
この日を祝うのは、すべての人間の権利です。なぜならムハンマドは、すべての人間の預言者だからです。彼は、神が遣わされた預言者たちの最後の1人です。イスラムは、神の目にかなう唯一の信仰です。ムハンマド以前の預言者も皆、ムスリムでした。神と神の使徒たちを信じる者は皆、ムスリムです。ムハンマドは、イスラムのメッセージを伝えた最後の1人でした。
神は、人間が1つの宗教、すなわちイスラムに帰依することを望まれました。ムハンマドは、彼以前の預言者たちとは異なり、すべての人間の許に遣わされたのです。彼の前任者たちは、自分と同じ部族や民族の許へのみ遣わされました。神は、こう言っています。「まことに、アッラーの御許にある宗教はイスラムである」(3-19)また、「イスラム以外の宗教を求める者は、決して受け入れられず、また、来世においては敗者の1人となる」(3-85)とも言っています。
今日(こんにち)われわれの手にあるコーランは、神によって啓示された唯一の書です。われわれは新約聖書・旧約聖書も信じていますが、われわれが知っている聖書は、神がモーセやイエスに啓示したものではありません。その証拠に、最後の預言者であり預言者の封印であるムハンマドは、オリジナルの聖書の中で言及されていますが、今日読むことのできる聖書には、ムハンマドへの言及がありません。これは、聖書が改竄されていることを意味します。モーセ(彼に平安あれ)は、自分の後にムハンマドという預言者が現れるだろう、と言いました。イエスはイスラエルの子らに向かって、自分はアフマドという預言者についての嬉しい知らせを持ってきた、と言いました。ムハンマドへの言及が含まれない聖書は偽物です。
イエスはコーランに25回出てきます。われわれは、その1つとして削除できません。モーセはコーランに138回出てきます。われわれは、その1つとして削除できません。マリアはコーランに39回出てきます。彼らのことは、深い崇敬と敬意をもって語られています。コーランに出てくるイエスやモーセを信じないなら、われわれは本当のムスリムではあり得ません。コーランが、1つの単語も削除されていない唯一の聖典であることは明らかです。われわれは、神がモーセに啓示した本物のトーラー、神がイエスに啓示した本物の福音書を探さねばなりません。それらは今、どこにあるのでしょうか? 悲しいことに、オリジナルの聖書は抹消されてしまったようです。今日、われわれが持っているのは人間が作ったもので、意図的に伏せられた部分があるのです。
太陽暦(グレゴリオ暦)によれば、ムハンマドは西暦571年4月13日に生まれ、約63年間生きて、西暦634年に亡くなりました。現代のわれわれの暦は、キリストの誕生を起点としています。なぜでしょう? それは、キリストの誕生(彼に平安あれ)が神の奇跡だからです。コーランは、この奇跡について詳細に語っています。イエスは神の言葉であった。彼は父親なしに生まれた。これは神の奇跡でした。彼は、まだ揺りかごにいる赤子のとき人々と話した。彼は死からよみがえり、不具者を治し、粘土で鳥を作りって、それに神の恩寵により命を吹き込んだ。彼が、自分と弟子たちに天国から食べ物をお与えくださいと神に願うと、そのようになった。われわれには、2007年前に起こったこの奇跡から暦を始める権利があります。
しかし、暦の起点として使う権利を世界が持っている出来事が、もう1つ存在します。それは、ムハンマド(彼に平安あれ)の死です。ムハンマドは最後の預言者だったからです。その死は、きわめて重要な出来事でした。ムハンマドの死によって、天と地の接触は絶えました。ムハンマド以後、啓示は完全に終わりました。彼の後は最後の審判の日まで、預言者は現れません。彼の死後、天は沈黙し、それ以上の啓示はなされませんでした。ムハンマドは最後の預言者であり、コーランは天から啓示された最後の聖典です。ですから世界には当然、この日を暦の重要な区切りと見なす権利があるのです。
太陰暦では、ムハンマドはラビーウ・アルアウワル月の12日に生まれ、63年後の同じ日に死にました。これは人類史上、特筆すべき日です。彼は、さっきも言ったとおり、西暦570年か571年に生まれました。簡単な計算で、死んだのは西暦634年だと分かります。
イエスの誕生と最後の預言者ムハンマドの死を自分たちの暦の重要な区切りとなる日として使わない者は、偽善者であり、神の預言者たちの敵です。なぜ世界は、最後の預言者の死を暦の起点として使わないのか。これは、われわれの意見では、世界は偽善的である、ということを意味しています。世界は憎しみによって支配され、人種差別的なのです。
われわれはなぜ、イエスの誕生を暦の起点として使っているのでしょうか? その理由は、それが特筆すべき日だったからです。それは、神の預言者の1人が、父親なしで生まれた日でした。モーセにも奇跡がありました。彼は奇跡の杖を持っていました。彼が外套の下に手を入れると、その手は傷1つなく白くなって出てきました。これに関連して、私が提起したい重要な問題があります。いわゆる“奇跡”をムハンマド(彼に平安あれ)に帰する本が何冊もあります。これは著者たちが、こう思っているからです — イエスは奇跡を起したし、モーセも奇跡を起した。なのになぜ、ムハンマドには奇跡がないのだ?
これは、神のご意志です。われわれは、奇跡がなくともムハンマドを信じています。奇跡をでっち上げ、それをムハンマドが行ったとする者たちは、彼を信じていません。信仰心の弱い者たちなのです。ムハンマドは奇跡を行ったと言う族長や導師たちは皆、不信心者です。ムハンマドについては、コーランが彼に啓示されたというだけで十分です。他の奇跡は必要ありません。コーランを信じるために他の奇跡を必要とする者は、コーランを信じていないのです。ムハンマドは最後の預言者でした。それは、他の預言者が誰も持っていない栄誉であり、それだけで十分です。コーランの中でムハンマドは、神や天使たちから祝福と挨拶を受けた唯一の預言者です。「アッラーと天使たちは、預言者に祝福を送った。おお、信者たちよ、あなたがたの祝福を彼に送り、あらゆる敬意を持って彼に挨拶しなさい」(33-56)あなたがたは、「神様、アブラハムを祝福したように、ムハンマドを祝福してくだい」と言う。しかし、これは間違いです。神はアブラハムに祝福を送っていません。あなたがたは、「アブラハム、彼に平安あれ」としか言えません。神と天使たちから祝福と祈りを送られた預言者は、ムハンマドだけです。
私は、ムハンマド(彼に平安あれ)に帰されている、こうした作り話がすべてなくなることを願っています、彼がガゼルと話したとか、石が彼に言葉をかけたとか、手から水が流れ出したとか、1つの皿から1000人に食べさせたとか、彼のために月が2つに割れた、とかいう話です。6世紀や7世紀の歴史のどこに、神が月を2つに割ったなどという記録がありますか? そのようなことを言う者は、ムハンマドに従う者ではありません。そのような作り話は、信仰心の弱い者の仕業です。このような捏造された奇跡は、そうした人々に信仰心が足りない証拠であり、それらをムハンマドに帰することは、他の信者たちの信仰を傷つけるだけです。
彼らが、ムハンマドの手から水が流れ出た、などという虚偽の主張をするのは、モーセが杖で岩を打つと、そこから水が流れ出た、という話があるからです。モーセやイエスが奇跡を行ったことをわれわれに語ったのは、預言者ムハンマド自身です。なぜ彼はねたみを感じず、なぜ自分には同じ特権が与えられないのかと問わなかったのでしょうか? 彼は預言者として、奇跡は神の領域、神のご意志であると知っていたからです。モーセが奇跡の杖を持ち、その杖が蛇に変身して砂漠の蛇をことごとく食い尽くしたことを、ムハンマドは隠しませんでした。モーセが海を2つに分け、岩から水を流れ出させたことも隠しませんでした。彼はなぜ、これらの奇跡を隠さなかったのでしょうか? 単にガブリエルがそのことを啓示の中で彼に告げ、コーランに書かれたからです。
コーランに、イエスは25回出てきます。イエスが死からよみがえり、神の恩寵によって不具者を癒した、とわれわれに教えたのはムハンマドです。神が彼にそう言われ、ムハンマドはそれを変えることができません。ムハンマドはなぜ、ねたみを感じなかったのでしょうか? イエスにはこうした奇跡が与えられたのに、なぜ自分には与えられないのかと、なぜ問わなかったのでしょうか? 奇跡は神の領域である、と知っていたからです。ムハンマドは、モーセやイエスの奇跡を心から信じていました。彼は、その話をガブリエルから啓示されたとおり、われわれに伝え、コーランにも含めています。私は、こうした捏造に終止符が打たれることを願っています。ムハンマドは最後の預言者であり、このことは、あらゆる栄誉に勝る栄誉です。
すべての預言者の中でムハンマドだけが、神と天使たちから平安と祝福を授けられました。ムハンマドは神に連れられて、メッカの聖なるモスクからアル・アクサのモスクまで夜の旅をしました。これは正真正銘の奇跡でした。「彼は確かに、主の最大の印を見た」(53-18)。これらはコーランに出てくる出来事で、ムハンマドによって確証されています。これらで十分以上です。ムハンマドがやっていないことを彼に帰するのは、不信心な行いです。大ぼら吹きたちがインターネットをこうした作り話でいっぱいにしているのですが、それは人々を混乱させるだけです。
われわれが今日、生誕を祝っているムハンマドは、最後の預言者です。彼は、すべての人間のために遣わされた預言者です。スカンジナビアの人々はムハンマドを攻撃していますが、それは自分たちに遣わされた預言者を攻撃することです。ムハンマドを中傷する者たちは、病んで無知な者たちです。彼らは人種差別をする偽善者です。彼らはすべての人間の敵であり、神やイエスやモーセの敵です。モーセやイエスは、ムハンマドを信じています。ムハンマドも彼らを信じています。スカンジナビアはイエスを信じているでしょうか? もちろん違います。ムハンマドを攻撃するなら、彼らは神の預言者の1人に対する尊敬を欠いた不信心者です。そんな態度には、神の報いがあるでしょう。彼らは、ムハンマドはアラブの人々の預言者だと信じているのです! ムハンマドは、アラブ人・非アラブ人を問わず、すべての人間のための預言者です。彼は、本人たちが好むと好まざるとにかかわらず、スカンジナビアに遣わされた預言者でもあるのです。神は、はっきりとこう述べています — ムハンマドの信仰は、たとえムシュリクン(多神教徒や偶像崇拝者、アッラーが唯一神であると信じない者)が嫌がっても、広く普及するであろう、と。(9-33)
神は、旧約聖書と新約聖書に名前が出てくるすべての人間のために、ある1人の預言者を差し向けました。しかし、今日読むことができる聖書に、彼に関する記述はありません。ということは、それは偽物であり、本物ではないのです。「(思い出しなさい、)マルヤム(マリア)の息子イエーサ(イエス)はこう言った。『おお、イスラエルの子らよ! 私はアッラーからあなたがたのもとに遣わされた使徒であり、私より前(に来た)タウラト(トーラー)を確証し、私の後に1人の使徒が現れる、という嬉しい知らせを持ってきた。その使者の名はアフマドという』」(61-6)
われわれは前回、預言者の生誕を祝うためティンブクトゥに集まった折、巡礼の問題を取り上げました。巡礼という行為は、ムハンマドより前の、アブラハムやイスマイルの時代から存在しました。カアバは、アブラハムやイスマイルより古いのです。カアバは、人々がそこへ巡礼に訪れることができるように存在しています。そこへ行くべきなのは、ムハンマドを信じる人々だけではありません。すべての人が行くべきです。巡礼は、ムハンマドが遣わされる以前から、すべての人間の義務でした。コーランの中で、神はこう言っています。「そこへの巡礼は、人 — 旅をする余裕のある者 — が神に対して負う義務である」(3-97)神は「人」と言っているのであって、アラブ人ともムスリムとも言っていません。アメリカ人でもヨーロッパ人でも、アジア人やアフリカ人でも、巡礼に行くのはすべての人間の義務なのです。なぜなら、カアバは神が地上に設けた最初の礼拝の家だからです。「人のために建てられた最初の(礼拝の)家は、バッカのそれであった」(3-96)神は「人のために建てられた」と言っているのであって、「アラブ人やムスリムのために建てられた」とは言っていません。カアバは地上における神の家であり、すべての人々のものです。カアバを訪れてサファーの丘とマルワの丘の間を歩き、アラファト山に登って祈るのは、すべての人間の義務です。こうした儀式は特定の人々の集団だけに限られると、誰が決めたのでしょうか?
巡礼はムハンマドの信者だけのものなどと言うのは、いったい誰でしょう? この家は、すべての人のために建てられた神の家です。特定の誰かのものではありません。人々がこの聖なる神殿の周りを歩くのを妨害する権利が、誰にあるのでしょうか? 神は、こう言っています。「まことに、信仰に背く者や、(人々を)アッラーの道や、私が(すべての)人間のためにつくった(開いた、マッカにある)マスジド=アル=ハラームから妨げる者・・・」(22-25)。神はご自身の言葉で、この家はすべての人のために建てられたと言っておられ、そこへ巡礼に行く権利を、すべての人が等しく持っています。神がすべての人のために開設したモスクを人々が訪れるのを妨害する者は不信心者であると、神は言っているのです。何がアラブ人に、神の家を独占する権利を与えるのでしょうか? すべての人が、神殿の周りを歩く権利を持っています。ムハンマドの信者以外の者はこの神殿に来てはいけない、というのは、どこから出てきた話なのでしょう? コーランの中で、このことに触れているのは1個所だけです。そこに曖昧さは全くありません。「あなたがた、信仰する者たちよ! まことに多神教徒は不浄である。だから彼らのこの年以降、彼らを聖なるモスクに近付けてはいけない」(9-28)
モスクに来るのを禁じられているのは、不浄な多神教徒だけです。不浄な多神教徒とは誰のことでしょう? もしローマ教皇が、カアバのまわりを歩きたいと言ったら、どうなるでしょうか? 今の規則に従えば、それは許されない、と言われることになります。すると教皇は、なぜかと尋ねるでしょう。許されないという納得できる理由は何なのか、と。コーランを隅から隅まで読んでも、見つかるのは「まことに多神教徒は不浄である」という1節だけです。教皇はただ、自分は多神教徒でも不浄でもないからカアバを訪れる権利がある、と答えるでしょう。彼はきっとこう言うでしょう。「これは、アラブ人だけのためでなく、すべての人間のために建てられた神の家だ。私は神を信じている。多神教徒でも不浄でもない」あなたは教皇に向かって、「あなたは不浄だ」と言えますか? 同様に、もしアメリカの大統領がカアバの周りを歩きたいと望んだら、何と言われるでしょう? 今の規則 ルールの下では、これは禁じられています。もし彼も禁止の理由を尋ねたら、われわれは彼に何と言うでしょう? 誰が米大統領に向かって、あなたは不浄な多神教徒だ、と言えるでしょうか? その勇気があると言う者がいるなら、アメリカ大統領のところへ行って、あなたは不浄な多神教徒だからこのモスクに来る権利はない、と言ってもらいましょう。もっとも、私は断言しますが、そんなことができる者はいません。したがって、彼らが好むと好まざるとにかかわらず、米大統領はカアバに来て周りを歩くことができます。巡礼関連の責任者 担当者は、米国大統領に向かって、あなたは不浄だ、と言えるでしょうか? もちろん言えません。彼が唯一神を信じると言うなら、あなたは多神教徒だと誰が言えるでしょうか?
現行の規則には問題があり、コーランに反しています。聖なるモスクに近付くのを許されないのは、不浄な多神教徒だけです。他の人々は皆、そうする権利があります。コーランははっきりと、人々がそうするのを妨げようとする者は不信心者だ、と述べています。「まことに、信仰に背く者や、(人々を)アッラーの道や、私が(すべての)人間のためにつくった(開いた)、(マッカにある)マスジド=アル=ハラームから妨げる者・・・」(22-25)人々が聖なるモスクを訪れるのを邪魔する者は、不信心者です。神はこう言っています。「そこへの巡礼は、人 — 旅をする余裕のある者 — が神に対して負う義務である」(3-97)アラブ人がアッラーに対して負う義務だ、と言ったのではありません。すべての人々と言ったのです。できる者は誰でも、聖なるモスクに行く権利があります。神の言葉によれば、「思い出しなさい。私はこの家を、人々が集う場所、安全な場所として設けた」(2-125)つまり、すべての人が安全に集うことができる聖域なのです。神は、こうも言っています。「そして、あなたがた(人々)を、祈りの場所であるイブラヒム(アブラハム)のマカーム(場所)へ連れていく」(2-125)神は常に、人々について話しています。すべての人についてであって、特定の集団ではありません。また、こうも言っています。「私は、イブラヒム(アブラハム)とイスマイル(イシュマエル)に命じた。周りを歩き、あるいは滞在し、あるいは立礼し、あるいは(そこで、祈りのために)ひれ伏す者立ちのために、私の家を清めよ、と」(2-125)この言葉はきわめて明確です。神はイブラヒムとイシュマエルに、人々が巡礼に訪れることができる家を建て、それを清めよと命じたのです。これはムハンマドよりずっと前のことです。神はイブラヒムに言いました。「すべての人間にハッジ(巡礼)を呼びかけよ。彼らは徒歩で、あるいは、いるだけの痩せたラクダに乗って、すべての深く遠い(広い)山の街道から(ハッジのために)あなたの許に来るであろう」(22-27)また、こうも言いました。「まことに、人間のために最初に建てられた(礼拝の)家はバッカ(マッカ)のそれであり、すべての生きものへの祝福と導きに満ちている」(3-96)この言葉も、きわめて明確です。神は、すべての人々、すべての生きものと言っているのです。
今日という素晴らしい日にもう1つ、やはり非常に重要な話をさせてください。ここには、世界中からムスリムが来ています。その中には、迫害されたり差別に苦しんでいる人が大勢いることを、私は知っています。彼らを背教者と見なす者すらいるほどです。スンニ派とシーア派という異なる宗派があり、その内部にも分派があります。シーア派が迫害されていることを、誰が否定できるでしょう? シーア派の分派の多くは不当に差別され、非信者と見なされています。他の多くのイスラムの宗派も同じです。私は神学的な説明には関心がありません。関心があるのは、こうした宗派が置かれている政治的立場です。
シーア派はアラブ諸国で、二級市民、三級市民となっています。信じる宗教のせいで、政治的な権利を奪われ、一級市民である権利を失ったのです。彼らに何の罪があるのでしょう — シーア派は預言者ムハンマドの家族のうち特定のメンバーを崇拝し、後継者にはアリーが最もふさわしかったと信じている、という以外に?
シーア派の分派の多くが迫害され、世界中に追い散らされて、異端と非難されています。バハール派、バハーイー派、ニザール派、ドゥルーズ派、ヌセール派、ザイド派、カディヤニ派ほか、多くのシーア派の分派が、そうなのです。私は、宗教的・神学的な差異には関心がありません。関心があるのは、そうした宗教的差異の結果として生じた、政治的迫害や差別です。
信仰や宗派のせいで、シーア派やバハーイー派、ドゥルーズ派、ザイド派、バハール派の信者は、自国の元首となることも、影響力のある地位に就くこともできません。預言者ムハンマドの家族の末裔であるシャリーフ派も同様で、シーア派とのつながりのせいで迫害を受けています。
これは宗教の問題ではありません。政治の問題であり、人権侵害です。われわれは皆、特定の宗教の信者・特定の宗派の一員である前に、人間です。われわれは、宗派や信条とは関係なく、それぞれの国の市民なのです。ですから皆が政治的に平等でなくてはいけません。人を閉め出したり、排斥したり、特定の集団を非難したりする権利が、誰にあるのでしょうか? 国は、国民みんなのものです。
この国ウガンダは、迫害されているバハール派やイスマイル派の信者を多数、受け入れています。なぜ彼らはインドを逃れてウガンダに来なければならなかったのでしょう? これは政治的迫害です。
結局のところ、宗教の信仰は個人と神の間の事であるべきです。政治的には、われわれは皆、平等です。
私は、弾圧や迫害を受けて世界中に追い散らされた、こうした宗派の信者たちと並び立ちます。彼らは自分の信仰のために、恐怖と不安の中で暮らしています。彼らに干渉してはなりません。彼らの信仰は、彼らと神の間の個人的な事柄です。宗教的な理由で彼らの市民としての政治的権利を否定する権利は、誰にもないのです。
こうした弾圧されたコミュニティーが迫害に苦しんでいる結果、ファーティマ朝国家の再建を呼びかける必要が生じました。その国なら、こうした弾圧されている集団を守ることができます。この新たなファーティマ朝国家は、北アフリカと中東に建国しても良いでしょう。それは、非常に強力な国家になる可能性があります。そうなれば、こうしたコミュニティーを迫害している者たちは、自分たちの誤った行動を激しく後悔するでしょう。こうした迫害された穏和な集団 —バハーイー派、イスマイル派、ザイド派、バハール派、シーア派、ドゥルーズ派 — が皆、いつの日か、それぞれ 自分たちの国を持つことも考えられます。これは、昔からある歴史的・哲学的議論の問題ではありません。今日(こんにち)のわれわれの生活に影響を及ぼす、現実の政治状況です。
われわれがいつまでも、この素晴らしい日を祝うことができますように — 神の真実の信仰があまねく広がるまで、そして、ムハンマドはすべての人間のための預言者であり、アッラーと共にある宗教はイスラムであると皆が気づくまで。(3-19)
平安と、神の慈悲と祝福が、皆さんの上にありますように。
世界が現在直面しているテロの危機に対する指導者の分析
この問題には2つの側面がある。 1.アメリカに対する攻撃。政治の首都であるワシントンDCと経済の中枢であるニューヨークが共に、前もって綿密に計画され、きわめて暴力的で…