敬愛なる指導者とジャマヒリヤの教会長、友好国の大使、リビアの政治、宗教、文化界代表者との会合
神の御名において。
啓典の民の祝日と重なるこの素晴らしい聖なる夜に、兄弟の皆様をこのようにお迎えできることを嬉しく思います。
過日、全世界はイエス(かれの上に平安あれ)生誕2006年の経過と2007年の開始を祝賀いたしました。本日、金曜日は、ハッジの時期としてアラファト山でビジルが行われ、2日後の1月1日は、イエスの誕生日12月24日の後に来る割礼日から2007年を迎えることとなります。さらにこの日は、預言者たちの封印であるムハンマド(かれの上に神の平安と祝福あれ)の逝去から1375年目に当たる日でもあります。
全世界の人々は、イエス(かれの上に平安あれ)の生誕とムハンマド(かれの上に神の平安と祝福あれ)の逝去を祝う義務を有しております。イエスの生誕は、神の驚異と聖なる奇跡の一つであることから、この日を西暦元年とし毎年祝わなくてはなりません。最後の預言者であるムハンマドの逝去に関しても同様です。ムハンマドの逝去は宇宙規模の重大な出来事であり、これを西暦の始まりとして全世界で採用するべきであります。
先に述べたようにイエスの生誕は、神の驚異と奇跡の体現であります。イエス(かれの上に平安あれ)がもたらした奇跡については、よくご存じのことでしょう。クルアーンに記されるように、揺りかごの幼子イエスは人々に語りかけ、病人を癒し、神の許しを得て死者を生き返らせました。クルアーンには、神がイエスを呼び寄せて、そのもとにあげる、という内容が明記されています。万能の神は次のように語りかけます。「イーサーよ、われはあなたを召し、われのもとにあげる。」そして、「だがかれらがかれ(イーサー)を殺したのでもなく、またかれを十字架にかけたのでもない。只かれらにそう見えたまでである。」さらに神はこうも述べています。「確かな知識はなくかれを殺した。」
イエスは、神の許しを得て、死者を生き返らせ、病人を癒し、奇跡をもたらしたのです。彼の生誕日を記念および祝福し、西暦元年とするのは当然のことなのです。同時にこの日は、最後の預言者ムハンマドの逝去日でもあります。彼の死をもって、神からの啓示は途絶え、天は静まり返り、審判の日まで地球との連絡を断ったのです。
この歴史的な出来事がいかに重要性かは、次の問いかけによって明らかとなるでしょう。「神からの啓示が途絶えたのはいつか?神が地球に使徒を送らなくなったのはいつか?天が静寂し、地球との連絡を断絶したのはいつか?使徒はいつまで地上に遣わされることがないのか?」それは審判の日に分かることです。こうした事象は、最後の預言者であるムハンマド(かれの上に神の祝福と平安あれ)の逝去がきっかけで起こったことなのです。
現在の状況において、社会、経済、政治問題、特に宗教問題について、反論の余地のない真実を明示するのは容易なことではありません。しかし、我々が直面する諸問題は悪化の途を辿っており、平和、地球の安定、人々の生活に多大な脅威をもたらすまで増幅しております。
その一方、宗教乱用の門戸は開かれ、「タクフィール(不信仰者の宣告)」、テロリズム、破壊、戦争、大量殺戮を正当化するまでの事態を招きました。こうした現状を鑑み、真実を開示しない者は黙秘の悪魔であると言えましょう。黙秘の悪魔になど私はなる気はありません。よって、今回、皆様にお会いするのが私の義務だと考えた次第です。
今晩、ジャマヒリヤの教会長、友好国の大使、リビアの政治、宗教、文化界の代表者とお会いできるという名誉を拝受しました。ウガンダ共和国の皇太后ならびに高級代表団の皆さまとお会いする幸運にも恵まれました。よって、これが真実をお話するに最適の機会と考えたのです。ここでお話する内容は私が創作したことでも、解釈の末に到達した結論でもありません。これは現実に起こっていることなのです。
無垢な一般人や大衆を操作しようと、世の中には虚偽、異端、詭弁で溢れ返っていることは周知のことです。異端の擁護者、戦争の利益者、武器商人たちは皆、現在沸き立つ混乱と欺瞞から利益を得ているのです。
我々の信仰から言いますと、現在、宗教はひどく誤って解釈されております。現在の宗教問題は、世俗的かつ無作為な意見、立場、利益が生みだした因習の産物なのです。狡賢い首謀者は、宗教を乱用し、自身の利益にかなうように改竄し、これを人々の前に提示します。よって、宗教とはまったく関係のない宗教的な現実が作り出されたのです。
第一に、カアバの周回や、アラファト山でのビジルは、すべての人々に認めるべきです。ムハンマドの信者のみに、この儀礼を行う権利を付与するというのは最大の欺瞞であり、イスラーム、クルアーン、その他の情報源を見ましてもこの根拠は見当たりません。
ムハンマドにクルアーンが下されたとき、アブラハム(かれの上に平安あれ)を崇拝するため、人々は既に2500年間もカアバを周回していました。カアバの周回は、ムハンマドや彼の信者に限定されるものではなく、すべての人々に許されるべきなのです。神は、カアバは神を崇拝するために建てられた初の聖殿だと語っています。ここで、世界の人々、特にムハンマドの信者が黙過しているクルアーンの一節をご紹介します。
「本当に人々のために最初に建立された家は、バッカのそれで、それは生けるもの凡てへの祝福であり導きである。」 神は、人々のために建設された初の聖殿は、アラブ人またはムハンマドに限らず、万人のものであると語っているのです。これは、地上にいるすべての人々のために建設された初の聖殿であり、万人にとっての聖なる道標なのです。この聖殿はバッカのそれ、つまりメッカのカアバなのです。これは、アラブ人やアラビア半島の住民、メッカの住民だけのものではありません。この「聖なる」とは建造物が立つ場所を指すのであって、建造物自体が神聖なのではありません。
カアバの覆い布を掴み、この建造物や壁に抱きつく者が見受けられますが、こうした者たちは異教徒であります。このような発言には、カアバを周回する数百万人が反論するかもしれません。しかし、この聖殿は遥か昔に建設されたのではなく、いつでも崩壊、再建することができるのです。清冽かつ神聖なのは、その建造物の下にある土地なのです。神は、この清冽かつ神聖な場所を人々に周知させるため、アブラハムとイシュマエルに建造物を建てるように命じました。そうしなければ、聖なる場所がそこにあるのか、隣の谷にあるのか区別がつかないからです。
レンガ造りの現在の聖殿の壁は、人々が触れており、神聖ではありません。この建造物を目印とした場所を周回することは、アラブ人やムハンマドの信者のみでなく、すべての人々に許されていることです。これは万人のために建てられた初めての家なのです。全大陸から来たすべての人々がカアバを周回し、アラファト山でビジルを行うことができるのです。これを阻止しようとする者に関して、神はこう述べています。「 本 当に信仰を拒否した者、(人びとを)アッラーの道から妨げる者、われが人びとのために建立した 聖なるマスジド(に入ること)を拒否する者・・・」そこの居住者であろうと、外来者であろうと、人々によるカアバの周回を阻止する者は、クルアーンにおいては不信者と定義されるのです。
明日、ローマ教皇特使がカアバを周回したいと言うなら、それを行う権利があるのです。カアバは万人のためのものだからです。それを阻止する者はクルアーンが定めるところの、 「本 当に信仰を拒否した者、(人びとを)アッラーの道から妨げる者、われが人びとのために建立した 聖なるマスジド(に入ること)を拒否する者・・・ 」であり、不信者として見なされます。ローマ教皇特使に、カアバを訪問、周回してはならぬと伝えたのは誰でしょう?このようなことを言ったのは誰でしょうか?彼の邪魔をしているのは誰なのでしょう?クルアーンに、彼の訪問を禁止すると記されているのでしょか?いや、そんなことはありません!
人々によるカアバの周回を禁止しているのは誰でしょうか?これはクルアーンに次のように定める者なのです。「多神教徒は本当に不浄である。だからかれらのこの年以後、かれらを聖なるマスジドに近付かせてはならない。」彼らが不浄ならば、カアバの周回を許してはならない 多神教徒とは一体誰でしょうか?それは、神を崇拝せず、一つの神を信じず、偶像を崇拝する者たちです。
クルアーンにある「ムシュレキーン(偶像崇拝者) 」という単語は、偶像崇拝するアラブ人を指すものです。多神教徒である彼らは、 「ラト」、「ラザ」 、「モウナット」などの偶像を崇拝します。彼らは穢れた偶像崇拝者であるため、神聖なるモスクの近くに寄せつけてはなりません。しかしそれ以外の者は、カアバを周回することができるのです。この呼び掛けをすぐにでも実施する必要があります。全人類にカアバの周回を認めるべきであり、これによって多大な利益がもたらされるのです。
現在、悪化の途にある世の中の状況についてお話しました。神が全人類によるカアバの周回を願ったことには訳があります。「われが人びとのため、不断に集る場所として、また平安の場として、この家(カアパ)を設けた時を思い起せ。(われは命じた。)「イブラーヒームの(礼拝に) 立った所を、あなたがたの礼拝の場としなさい。」またイブラーヒームとイスマーイールに命じた。「あなたがたはこれをタワーフ(回巡)し、イアテカ―フ (御籠り)し、またルクーウ(立礼)し、サジダする者たちのために、わが家を清めなさい。」
この聖殿を建て、清め、人々に周回するように神が命じたのは、ムハンマドではなくアブラハムなのです。「われが人びとのため、不断に集る場所として、また平安の場として、この家(カアパ)を設けたとき、」つまり、これは人々が出会う場所という意味です。神は、人々が年に一回カアバの周りに集まり、互いを知り合うことで団結することを望んだのです。
これは、地球の平和、人類の調和と協力を実現するために代表者が毎年集まり発言する国連総会のようなものなのです。カアバを人々が出会う場所とすること。これこそ、神が望んだことなのです。神はカアバを、アラブ人やムハンマドの信者のためだけでなく、全人類による年次会議の場所としたかったのです。
カアバを独占しようとする姿勢は、人種差別主義に他なりません。カアバはすべての人々のものである、というのは偉大なる英知であります。アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、アジア、オーストラリアといった全大陸から、人々が毎年カアバを訪れ、周回し、互いに知り合う、これこそ共同信仰なのです。
カアバの周回をする人はムハンマドの信者だ、などと言う者がいれば、これは嘘つきのペテン師に他なりません。ムハンマド以前のアブラハムの時代から、人々はカアバの周回を2500年間も行ってきたのです。人々は、クルアーンやムハンマドが現れる前から、カアバを周回していました。神はこう言っています。「この家への巡礼は、そこに赴ける人びとに課せられたアッラーヘの義務である。」巡礼するのはアラブ人のみとも、これがアラブ人、ムハンマドの信者、アラビア半島の住人の神に対する義務だとも言っていません。神は、「神に対する人々の義務」と言っているのです。つまり神は、すべての人々にカアバの巡礼を命じているのです。神はこうも言っています。「人びとに、巡礼〔ハッジ〕するよう呼びかけよ。」これは、ムハンマドではなくアブラハムに命じたことです。巡礼はムハンマドが遣わされる前から遂行されていたのです。
アブラハムがカアバを建てたとき、神はアブラハムにこう言いました。「人びとに、巡礼〔ハッジ〕するよう呼びかけよ。かれらは歩いてあなたの許に来る。あるいは、どれも痩せこけているラクダに乗って、遠い谷間の道をはるばる来る。」神はアブラハムに人々に巡礼するよう伝えよ、と命じたのです。アラブ人やアラビア半島の住民、メッカの住民のみに伝えよとは言わず、全人類に伝えよと言いました。すべての人々に巡礼を呼びかけよ、とアブラハムに命じているのです。神はその英知により、我々の間に理解、平和、人類愛を生み出すため、カアバを全人類の出会いの場にしたいと願ったのです。
もちろん、政治または外交面でこうした話をすれば、アラビア半島に衝撃を与えることとなるかもしれません。しかし、これを否認するための根拠などないのです。否認する者には、イエス、モーセ、その他の宗教の信者によるカアバの周回を禁止すると書かれたクルアーンの節を引用してみよと言えばよろしい!このような節など存在しないのです。カアバの周回を禁止されているのは穢れた不信者だけなのです。
不信者は、聖なるモスクに近寄らせてはなりません。しかし、修道士、神父、牧師、数百万の啓典の民は穢れた不信者などではありません。よって、彼らによる巡礼をどうやって禁止することなどできましょうか?これは促進および実現すべきことなのです。
地球上に人々が聖殿を周回するような場所があるなら、それを見せていただきたい!カアバのような場所は他にありません。嬉しいことに、現在、全世界の人々にその映像を衛星放送で配信できるようになりました。
現在、数百万人がカアバを周回、巡礼する畏敬の念を起させるような映像を、我々はテレビで見ることができます。世界中にこのような場所が他にありましょうか?シーク教徒やブラフミンが訪れるインドのタージマハルのような神殿はあります。仏教徒は仏陀像を参り、イエス、モーセ、ムハンマドの信者はエルサレムを訪れます。しかしこれらは訪問なのです。
人々は、ムハンマドの墓があると言われるメディナのモスクや聖墳墓教会を訪れます。しかし、これは訪問であり巡礼ではありません。ムハンマドの墓を訪れるのは巡礼とは言えないのです。預言者の墓(このような墓が本当にあるとして)を訪れることは巡礼の一部と見なされておらず、よって、ムハンマドの墓に行くことで巡礼を遂行したとは言えないのです。加えて、この墓は現存しないというのが我々の見解です。こうした霊廟はワッハーブ派の改革運動で破壊されたからです。墓は破壊され、イスラームの歴史的な建造物は排除されました。ムハンマドの墓が実際に存在するかどうかの確証はないと私は考えます。いずれにしても、それが存在するかどうかは問題の核心ではありません。
教皇に敬意を表すべくバチカンに行くのも、クルアーン第一章「開端 (アル・ファーティハ)」を朗読したいとか、墓に興味があるとかの理由でムハンマドの墓へ行くのも、どれも訪問の類に当たるのです。
しかし、人々が周回するカアバのような場所は、世界中のどこを探しても他に見当たりません。これは、神が全人類に周回を命じた唯一の場所であり、この人々とはムハンマド、モーセ、イエスの信者である必要はないのです。神は細かい条件を定めず、カアバを周回せよとだけ命じています。家や教会で祈りを捧げるなど、巡礼の実施方法は自由です。瞑想しようが、動き回ろうが、各人それぞれのやり方で神を崇拝すれば良いのです。深夜から昼まで40日間断食を行う者もいれば、日の出から日の入りまで30日間行う者もいるでしょう。各人に定められた方法で断食や祈りを実施すればよいのですが、最も一般的なのはカアバの周回です。
すべての巡礼者がメディナを訪れるわけではありません。正式な巡礼ではないことから、必ずしも預言者の墓を訪れるわけでもありません。こうした場所を訪れるかどうかは、その人次第なのです。訪れないからといって責められるわけでもありません。規定にないことであるため、エルサレムを訪れない人もいます。バチカンやタージマハルのケースと同じです。しかし、カアバの周回は、唯一義務付けられた儀礼であり、訪問ではなく巡礼なのです。これは真実の一つであり、歪んだ信仰と誤った宗教の解釈を正すものです。
アルマゲドン、テロリズム、崩壊など、現在我々が見聞きする欺瞞、詭弁、異説をこれ以上黙認することはできません。これ以上黙っているわけにはいかないのです。真実を知るものが、これを人々に広める必要があります。
私が伝えたい第二の真理は、ムスリムはムハンマドの信者だという主張は虚言だということです。ムスリムは、ムハンマドの信者だけを指すのではありません。イエスの信者もムスリムであり、モーセ、アブラハム、ノア、イドリース、サーリフなど全預言者の信者がムスリムなのです。これはクルアーンに記されていることです。
クルアーンを暗誦できるシェイク・アルザナティ氏かシェイク・アルドゥカリ氏(かれらの上に神の祝福を)にお願いです。ムスリムとはムハンマドの信者のみではない、ということが書かれた節を引用していただけますでしょうか。まず、クルアーンには彼がムスリムだということが書かれていますね?
シェイク・アルドゥカリが起立。
シェイク・アルドゥカリによる返答:
敬愛なる指導者、
前に来た預言者の範に従うようにと、神が使徒(かれの上に平安と祝福あれ)に伝える節があります。「これはわれがアブラハムに授け、その民を説得するために述べた確証であった。われは嘉する者の(英知や徳性の)階位を高める。誠にあなたの主は英明にして全知であられる。われはかれ(アブラハム)に(子)イスハークと(孫)ヤアコーブを授けて、それぞれ導いた。先にヌーフも導いた。またかれ(アブラハム)の子孫の中には、ダーウードと、スライマーン、アイユーブ、ユースフ、ムーサー、ハールーンがいる。われはこのように善い行いをする者に報いる。またザカリーヤー、ヤヒヤー、イーサーとイルヤースがいる。それぞれみな正義の徒であった。またイスマーイール、アル・ヤサア、ユーヌスとル―トがいる。われはかれらを、皆世に秀でた者とした。またかれらの祖先と子孫と兄弟の中、われはかれら(のある者)を選んで正しい道に導いた。これはアッラーの導きであり、かれはそのしもベの中から、御好みになられる者を導かれる。もしかれらが(神々をかれと)並べたならば、凡ての行いは、かれらにとって、虚しいものとなろう。」
カダフィ閣下:
失礼。アブラハムがムスリムだったという節を紹介していただきたかったのですが。
シェイク・アルドゥカリ:はい、ここにありました。「あなたがた信仰する者よ、アッラーとかれの使徒を信じなさい。また使徒に下された啓典と、以前に下された啓典を信じなさい。」使徒の教えとアブラハムの教えを信じるようにとの内容が記されています。「本当にイブラーヒームは一人の模範者であり、アッラーに従順で、純正な信仰者であった。かれは、偶像信者の仲間ではなく、 かれは主の恩恵を感謝する。かれがかれを選び正しい道に御導きになられた。」
カダフィ閣下:
「イブラーヒームはユダヤ教徒でもキリスト教徒でもなかった。しかしかれは純正なムスリムであり、多神教徒の仲間ではなかったのである。」これは、アブラハムがムスリムであったことを意味します。
そして神はこう言っています。「イブラーヒームは、このことをその子孫に伝え、ヤアコーブもまた(それにならった)。「わたしの子孫よ、アッラーはあなたがたのために、この教えを選ばれた。だから必ずムスリム(服従、帰依者)となって死なねばならない。」つまり、ヤコブは息子に、ムスリム以外として死んではならないと言ったのです。これはムハンマド以前のことです。ファラオの魔法師は、モーセとアロンに対する信仰に関して何と言っていますか?
シェイク・アルドゥカリ:
彼らは、
「わたしたちは、ムーサーとハールーンの主を信じます。」と言っています。
カダフィ閣下:
彼らがイスラームに順守することを書いた節がありますね。
シェイク・アルドゥカリ:
「かれに、わたしたちは服従、帰依します。」
カダフィ閣下: ファラオの魔法師はモーセの奇跡を認め、「わたしたちは、万有の主を信じます。 ムーサーとハールーンの主を。」と言っています。これはアブラハムがムスリムであったことを意味します。ヤコブは息を引き取るときに、息子に何と言いましたか?
シェイク・アルドゥカリ:「ヤァ コーブが臨終の時、あなたがたは立ち会ったか。かれがその子孫に向かって、『わたしが亡き後、あなたがたは何に仕えるのか。』と言うと、かれらは、『わた したちはあなたの神、イブラーヒーム、イスマーイール、イスハークの神、唯一の神(アッラー)に仕えます。かれに、わたしたちは服従、帰依します。』と言った。」
敬愛なる指導者:ヤコブの息子は父親にこう言いました。「ムスリムとして神に仕えます。」そしてファラオの魔法師がモーセとアロンの主を信じたときに、「我々はムスリム」と言っています。アブラハムは、こう言っています。「われはムスリムである。神を信じる者はムスリムである。」よって、ムハンマドが来たとき、彼を信じる者はこの宗教の信者となったのです。「あなたがたのための教えとして、イスラームを選んだのである。」
シェイク・アルドゥカリ:「今日われはあなたがたのために、あなたがたの宗教を完成し、またあなたがたに対するわれの恩恵を全うし、あなたがたのための教えとして、イスラームを選んだのである。」
カダフィ閣下:つまり、ムハンマドは人々に、「多神教を崇拝するな。私以前のイスラームは、イエス、モーセ、アブラハムのイスラームである。」と言っているのですね。いいでしょう。では、イスラームが普遍宗教である所以は何でしょうか? これが、偶像崇拝と一神教の大きな違いです。偶像崇拝は、悪魔、地球、像、自然現象等を崇拝することです。こうした偶像崇拝を信じるのは悪魔の徒であり、神を信じるのが神の徒であるムスリムなのです。ムハンマド以前に神を信じていた者もムスリムです。ムハンマドの信者は、アブラハムの時代から存在し、最後にイスラームに帰依した集団なのです。
その他に蔓延する欺瞞は、「ムスリムはテロリストである。イスラームがテロリズムである。」という見解です。しかしこうした発言は、神を信じる者すべてを蔑するものです。誰かがムスリムを蔑すれば、啓典の民を蔑することになります。神に仕える者は皆、ムスリムだからです。ムスリムがテロリストだというのであれば、デンマーク人、アメリカ人、カナダ人、オーストラリア人、インド人、アラブ人は、すべてテロリストということになります。
ムハンマド(かれの上に神の祝福と平安あれ)は、彼の信者に対して、「ムスリム」とは呼び掛けていません。彼は、「信仰する者」「神のしもべ」「人々」という言葉を用います。ムハンマドの信者のみがムスリムなのではなく、神を信じる者すべてがムスリムであるため、このように呼びかけたのです。これは神の教えであり、これこそ神が定める宗教なのです。「本当にアッラーの御許の教えは、イスラームである。」つまり、ムハンマドを信じた者は正しい宗教を信仰していることになります。
「わ たしたちはアッラーを信じ、わたしたちに下されたものを信じ、またイブラーヒーム、イスマーイール、イスハーク、ヤアコーブおよび諸支挨に下されたものを 信じ、またムーサーとイーサーと(その他の)預言者たちに主から授かったものを信じます。わたしたちはかれら(預言者たち)の間に、どんな差別もしませ ん。わたしたちは、只かれに服従、帰依します。」イスラーム以外の教えを追求する者は、決して受け入れられない。また来世においては、これらの者は失敗者の類である。」
失敗者や受け入れられない者とは誰でしょうか?神を信じる者がムスリムなのですから、神を信じない者ということになります。シャリーアが人工物であるというのは確かなことです。シャリーアはイスラームの教えではなく、任意の解釈による産物なのです。誰かがその解釈を刑法に当てはめ、別の者が手続きやシャリーアの規定に採用したのです。
任意の解釈の産物であるシャリーアは真正なものではありません。真正なるイスラームのシャリーアは神聖なる法体系であります。しかし、これは開示された書物であるため、改竄や偽造の対象となったのです。
聖書には、ムハンマドはイエスの後に来た預言者だと書かれています。イエスはその民に、「律法を確証するため」彼の後に来る預言者に従うようにと語りかけています。イエスはその民に次のように言いました。「イスラエルの子孫たちよ、本当にわたしは、あなたがたに(遣わされた)アッラーの使徒で、わたしより以前に、(下されている)律法を確証し、またわたしの後に来る使徒の吉報を与える。その名前は、アハマドである。」彼の後に来る預言者に従うようにと、人々に伝えているのです。
これは、イエスの後に来る預言者に人々が喜んで従うことを意味します。これは吉報であり、福音書のアラビア語訳「インジール」とは吉報という意味です。これはどこに記されているのでしょうか?今の聖書には含まれていません。つまり、誰かが削除したのです。
大衆を抑圧および操作し、彼らの金銭を略奪する目的で、キリスト教、ユダヤ教、イスラームが改竄された、ということを先に述べました。つまり人々を操作する目的で儀礼や様々な信仰形態が創作されたのです。例えば、礼拝の指導者は帽子を被らなければなりませんが、これは誰が決めたのでしょうか?帽子なしで礼拝を率いることができないのは何故でしょうか?帽子はイマーム(祈りの指導者)と集団を区別するためだとか、イマームにとっての王冠なのだとかの流言飛語があります。
これをせよ、これを着よ、というのは間違っているのです。イエス、モーセ、ムハンマドは、かつて、メディナやメッカの居住者と同じ格好をしており、現在指定されるようなものは身につけていませんでした。ローブを持ち上げていたのは、メディナには水溜まりがあったからです。ヤシの木を植え、水を引き、水洗いをし、モスクや家を建てていたため、ローブを持ちあげる必要があったのです。乾燥した砂漠で水溜りなどないにもかかわらず、預言者の真似をしてローブを持ち上げる者がいます。ローブを持ち上げる必要などありましょうか?これは、ペテンであり宗教ではありません。
クルアーンに関して言えば、その本来の意味を考えず、鼻音や重子音などの正しい発声方法にこだわり、人々を困惑させる輩がおります。人々はこの複雑さに戸惑い、節の意味など考えず、どうやったら全部記憶できるかと途方に暮れるわけです。重子音や鼻音などは自然にできるものなのに、発音法だけに注意を巡らせるようになってしまう。話したり、読んだりするとき、二つの似た音は自然と重なり合うものなのです。例えば、「キブダティ」は「キバティ」となります。BとDの音がつながるからです。しかし、これが重子音だと教わり、Dの音が消え、舌先で音を出すのだなどと指導されます。これは、シェイク・アルドゥカリ氏の専門分野であると思います。
モスクの区別化などもされています。スンニ派とシーア派は、それぞれ独自のモスクを有しています。ナイジェリアでは、ムハンマドの信者が、教会を燃やし、イエスの信者がモスクを燃やすという事件もあります。このようなことをする者たちは異教徒です。教会もモスクも祈りの家なのです。神を信じるのなら、自分の信仰する神が宿る場所を燃やすことなどできましょうか?モスクであろうと教会であろうと、それを神聖な場所と見なし、神を信仰する人々に敬意を表さなければならないのです。「悪魔ではなく、私と同じ神を崇拝する信者がいる。」と喜ぶべきなのに、この逆の事態が発生しているのです。これは宗教に対する理解が足りないことが原因なのです。
現在、宗教上の欺瞞が蔓延し、多くの事実が隠蔽されています。ムハンマドについて記された聖書を追求しなければなりません。ムハンマドという名の預言者が後に遣わされるという吉報を授かった、とイエスが述べたと神は語っています。
イエスが来たときにモーセが存命なら、モーセはすぐさまイエスに従ったことでしょう。彼をキリスト教徒と呼びたければそうすれば宜しい。ともかく、モーセですらイエスに従い、彼の教えに従ったはずなのです。ムハンマドが来たときにイエスが存命なら、イエスは即座に彼に従ったはずです。これが宗教なのです。優越主義、人種主義、植民地主義、他宗教への偏見は捨てなければなりません。信仰の場所は神を崇拝する場所であり、その神はどれも同じ神なのです。
ムスリムを蔑し、「ムスリムはテロリストだ。」と言う者は無視すればよろしい。ムハンマドの信者はこれに反論などしなくてよいのです。「ムスリム」という用語は、ムハンマドの信者のみでなく、すべての一神教徒を包括するからです。ムスリムを非難するということは、ムハンマド、イエス、モーセ、アブラハム、ノアの信者を蔑すると同じことです。何でも好きなことを言わせれば良いのです。ムハンマドの信者は、モーセ、イエス、ヤコブ、イサク、イシュマエル、アブラハム、ザカリヤ、ヨナ、エリシャに従ったムスリムの中の一つの集団にすぎないのです。
万人に遣わされた預言者ムハンマドを蔑するということは、自らの預言者を蔑するのと同じです。デンマークで、預言者ムハンマドに対する非難がありましたが、ムハンマドは最後の預言者で、アラブ人、デンマーク人、オーストラリア人、カナダ人、南米人、その他全ての人々の預言者であるため、彼らは自分の預言者を蔑していることになるのです。
ムハンマドの信者がイエス、モーセ、その他の預言者を信じないのであれば、彼らは本当の信者ではありません。預言者の間に違いなどないのです。これに関して、クルアーンには次のように記されています。「わ たしたちはアッラーを信じ、わたしたちに啓示されたものを信じます。またイブラーヒーム、イスマーイール、イスハーク、ヤアコーブと諸支部族に啓示された もの、とムーサーとイーサーに与えられたもの、と主から預言者たちに下されたものを信じます。かれらの間のどちらにも、差別をつけません。
かれにわたした ちは服従、帰依します。」
これを信じないなら、ムハンマドを信じていることになりません。ムハンマドを信じる者は、イエス、モーセ、イサック、イシュマルを信じなければならないからです。すべての預言者を信じ、彼らの間に差別をつけてはならないのです。
アブラハム、イシュマル、イサック、ヤコブ、モーセ、イエスが今日存命なら、現状は随分違っていたことでしょう。預言者はみな兄弟であり、我々がみな一つの神を信じるムスリムであると認識することができたはずです。これを信じない者は審判の日に報いを受けることとなります。 預言者が存命なら、現在の問題は発生していなかったはずです。しかしながら現実には、人々は宗教を乱用して様々な宗派を生み、人々を仲違いさせることで彼らを操作しているのです。
マルヤムの子イーサーが、こう言った時を思い起せ。「イスラエルの子孫たちよ、本当にわたしは、あなたがたに(遣わされた)アッラーの使徒で、わたしより以前に、(下されている)律法を確証し、またわたしの後に来る使徒の吉報を与える。その名前は、アハマドである。」そしてムハンマドに「アラブの民よ」と言わず、「人びとよ」そして「人びとよ、わたしはあなたがたに遣わされたアッラーの使徒である」と言っている。
アジア、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ、オーストラリア、全世界の人々にとって、ムハンマドは万人の預言者なのです。アラブ人に限らず、彼はこう語っています。「人びとよ、わたしはあなたがたに遣わされたアッラーの使徒である。」ムハンマドはイエスとモーセの後を継ぎ人々に遣わされ、彼らはムハンマドの兄弟であり、かれらの啓典には神の言葉、ムスリムとして信じるべき内容が記されていたのです。
トーラーや聖書が、ムハンマドについて触れていないのは何故でしょうか?ムハンマドについて記された節を誰かが故意に削除したのです。この者は審判の日にこの報いを受けます。神の言葉を削除したのですから、これは大罪です。クルアーンの言葉を一つでも削除しようものなら、「その場合われはあなたの(この世の)生活で2倍、また死んでから(来世で)2倍の(懲罰)を味わわせるだろう」 神は、この罪人をこの世で何度も罰し、来世でも同じほど罰するのです。イエスの名は、クルアーンにおいて25回明記されています。ムハンマドの信者は、イエスの名を削除できなかったのです。これを削除しようものなら、地獄の報いが待っています。神が25回も繰り返した名を削除することなどどうしてできましょうか?
クルアーンでは、モーセは138回、マリヤについては38回言及されており、これらを削除することはできません。よって、クルアーンにはユダヤ教とキリスト教とその預言者についての良いことが書かれており、これらが削除されることはなかったのです。どうして誰も、「いや、これらを削除して、ムハンマドとその信者のみが神に選ばれた者だと明記しよう。」と言わなかったのでしょうか?これは 不信心ですが、トーラーと聖書はイエスのずっと後に書かれたものなのです。
ムハンマドの名が記載されているトーラーと聖書を見つけなければなりません。「本当に信仰を拒否した者、(人びとを)アッラーの道から妨げる者、われが人びとのために建立した聖なるマスジド(に入ること)を拒否する者」 よって、キリスト教やユダヤ教、その他宗教の信者に、カアバの周回を禁止する者は不信者なのです。
「本 当に信仰を拒否した者、(人びとを)アッラーの道から妨げる者、そこ(マッカ)の居住者であろうと、外来者であろうと凡て、われが人びとのために建立した 聖なるマスジド(に入ること)を拒否する者」これはつまり、この地に居住する者または訪問者を意味します。「 われがイブラーヒームのために、(聖なる)家の位置を定め(こう言った)時のことを思いなさい。「誰も、われと一緒に配してはならない。そしてタフーフ(回巡)する者のため、また(礼拝に)立ち〔キヤーム〕、立礼〔ルクーウ〕しサジダする者のために、われの家を清めよ。人びとに、巡礼〔ハッジ〕するよう呼びかけよ。かれらは歩いてあなたの許に来る。あるいは、どれも痩せこけているラクダに乗って、遠い谷間の道をはるばる来る。」これは、オーストラリア、カナダ、スイス、フィンランドから人々がやって来ることを意味します。これはムハンマドが来る250年前から実践されていたことです。「遠い谷間の道」とは、アラブ人やムハンマドの信者だけでなく、すべての遠隔地から来る者を意味するのです。
イエス(かれの上に平安あれ)を信じる者は、イエスの生誕日と割礼日を祝います。イエスの使命を真に信じているのです。イエスが山に登り、人々に語りかけたとき、何と言ったでしょうか?彼はこう言いました。「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。」つまり、植民地主義者、テロリスト、偏見者、他国に憎悪を抱く者、獲物を狙って徘徊する侵略者などではなく、人々に正しく柔和になることを求めているのです。
「憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。」神が憐れみを与えるのは誰でしょうか?他者に対して憐れみ深い人に、憐れみを与えるのです。人類を破壊し、ロケット、スマート爆弾、巡航ミサイルを発射し、戦車で子供を轢くような者が、憐れみを受けることができるでしょうか?これらは憐れみに値せず、イエスの教えを侵害する者であるため、神による罰が下ります。「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。」 心の清い人は神を見ることができるのです。集団殺戮を犯し、人類を憎み、土地を侵略し、人々を奴隷化し、動物のように扱う闇の心を持った者は、神を見ることなどできません。
神を見る者は、心の清い者なのです。植民地主義、憎悪、妬み、悪意のない心を持った人々なのです。イエスの信者は、清い心を持った、憐れみ深い、柔和な人々です。こうした人々は神を見ることができます。イエスを信じる人々は、清い心を持った、憐れみ深い、柔和な人々です。イエスを信じる真のキリスト教徒であるなら、これを原則とするべきなのです。
しかし、現在のイラク情勢、グアンタナモ、パレスチナ、ベトナム、フィリピン、二つの世界大戦、日本での原爆投下などを考えると、この教えはどこにいったのかと言わざるを得ません。どうすれば、「我々はキリスト教徒だ。」と宣言することができましょうか?できるわけがないのです!
「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」天の国は、掠奪者や圧制者のものではなく、そこには彼らの居場所などなく、陰府の底に送られるべきなのです。
イエスはこう言っています。「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。」 さらに、こうとも言っています。「『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。」これはトーラーに記されています。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」「もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。」つまり、だれかがあなたの味方となり、協力し、口論を止め、一歩あなたのほうに歩み寄るなら、彼のほうに一マイル進むべきなのです。これらがイエスの教えです。さらにこうとも言っています。「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」資本主義とイエスの教えを共存させることがどうしてできましょうか?
アブラハム自身も、かつて、太陽、月、星を崇拝していましたが、彼を責めるべきではありません。アブラハムは、神に語りかけられて初めて、神の存在を知ったからです。神は彼にこう言いました。「 われが太陽、月、星などあなたがたが崇拝する万物を創造した。 」それでアブラハムはこう言ったのです。「今、光が見えた。」
イエスの復活、審判の日、天国と地獄は、神から伝えられて初めて知り得たことです。そうでなければ、我々は未だに暗闇を彷徨っていたことでしょう。我々が従うべき唯一の宗教は、神の宗教です。これに従う者は、神が人々に伝えた教えを信じる者です。しかし神の教えに背けば、それは個人の問題として、その責任を負わなければなりません。
クルアーンに記載されている事は誰にも変更できません。そうでなければ、我々は今ここに存在し得ないのです。 クルアーンの中には、ムハンマドを責める内容や、イエス、モーセ、ユダヤ人に関する話も記載されています。当時、双方の間で争い事もありましたが、それでもムハンマドは彼らに好都合な記述を削除することができなかったのです。啓示を書いた書記官やムスリムにも同じことが当てはまります。審判の日まで変更することなどできません。クルアーンにある一単語でも削除しようとすれば、その者は地獄に送られるのです。
よって、我々はこの本が真正であると確信しています。神が我々に伝えることで知り得た真理が記されているからです。ムハンマドが追記するはずもない、彼に不都合な内容もクルアーンに記されています。神は彼にこう言いました。「 もしわれがあなたを確りさせていなかったならば、先にあなたはかれらに少し傾きかけていた。」さらにこう言っています。「その場合われはあなたの(この世の)生活で2倍、また死んでから(来世で)2倍の(懲罰)を味わわせるだろう。」 この節が彼に伝えられ、彼はこれを人々に広めました。彼はどうしてこの神の言葉を削除しなかったのでしょうか。彼には不可能だったからです。
それではここで、現在我々が直面している問題について簡単に触れます。これは、宗教の欺瞞、宗教の間違った解釈によって生れた問題です。ムハンマドの信者をムスリムと呼び、イエスの信者をキリスト教徒、モーセの信者をユダヤ教徒と呼ぶようになりました。区別化を図るため服装規定が採用され、宗派ごとに異なる聖殿が建てられました。しかし、かつて、教会とモスクの間に違いなどなかったのです。
人種差別と植民地主義が台頭し、それらと同時に人類を支配しようとする者が現れました。そして、人々を群れのように追従させようとするこの支配者が宗教の乱用を行ったのです。彼らはこう言います。「他宗教の聖殿と区別するために、独自の聖殿を建てるのだ。」ナイジェリアやパレスチナでは、こうした者たちが神殿の燃やし合いをしています。イエスは、自身とマリヤの像を教会に飾ったりするようなことはしませんでした。これは後に作られたものです。礼拝、断食、喜捨、カアバ巡礼は、すべての預言者が定めた共通儀礼ですが、それ以外のものは後に作られたものなのです。人々が十字を切る行為も、イエスが行ったことではありません。これはイエスの磔刑を象徴するものであり、イエス自身がこうした方法で祈りを捧げていたわけではないのです。磔刑は実際には行われなかったことから、これはイエス(彼の上に平安あれ)逝去後の産物に他ならないのです。
これは、預言者のことばを引用する者と同類です。神が我々に何かするように命じたいならば、それをクルアーンに記していないのは何故でしょうか?これはユダヤ教のタルムードの真似ごとです。 タムルードは口伝律法と言われており書物ではありません。確かに、本当に神が言ったことであれば、律法であろうと、タルムードであろうと同じ事です。しかし、ここで問題となるのは、宗教が欺瞞に晒されているという事実です。宗教または文化革命が世界で起き、新しい世代がその責任を担えば、地球上の人類は改善し、平和、協調、独立が享受されることでしょう。そうしなければ、軍備競争、憎悪、敵意に固執し、核兵器で互いを破壊し合う道しか残りません。
預言者たちの信者が会するこの喜ばしい日ではありますが、パレスチナ、イラク、アブデルバゼット・メグラヒ、ブルガリア人の看護師、サダム・フセインといった出来事により、現状に暗雲が立ち込めています。これらは悲劇です。我々は、パレスチナ、アフガニスタン、イラクで起こっている状況に注意せねばなりません。無視することのできない惨事が今、発生しているのです。
その一方で、裁判所の機能に介入してはならぬ、との主張があります。反逆者や帝国主義の追従者が捕まり、裁判所が死刑や懲役の判決が下れば、「法律と裁判所に対する尊重はないのか。裁判所に介入し、その機能を阻害した。何故、裁判所の決定に介入し、死刑を下すよう要請するのか?」という主張があるのです。
いいでしょう。裁判所に何でも好きなことを決定させる裁量を与えましょう。しかし今度は、「いや、裁判に介入し、判決を変え、ブルガリア人の看護師を無罪放免にせよ!」と言う。「これは裁判が決定したことである。」と言うと、「いいや、その話しは聞きたくない。彼らを解放せよ。」こう反論します。「法律が最高の支配権を有し、裁判所の判決を尊重すべきだと言わなかったか?」
国家間の手続き、基準、関係性は堕落しているのです。醜悪かつ悲劇的であるため、触れていない問題もあります。第一に、人々を癒す憐れみ深き天使と医師が殺人罪に問われるというのは痛ましいことです。これは耐え難く、想像できず、信じ難い事件です。慈悲の天使と呼ばれる看護師が、子供を殺すことなどできましょうか?
問題となるのは、この医療チームが有罪判決を受けるかどうかという点です。有罪であれば死刑判決が妥当であり、これは単純なことです。誰かが計画的な殺人を犯したかどうか、強盗を犯したかどうか、これは裁判所が審理するべきことです。有罪判決が下されれば、懲罰を下し、有罪でなければ釈放するべきなのです。
この話に触れるのは今回が初めてです。ベンカジの看護師が死刑となるかどうか、これは重要ではありません。法律で死刑に相当する罪を誰かが犯したのであれば、裁判所はこの者に死刑判決を下すべきです。懲役に相当する罪ならば、裁判所は懲役判決を下す。しかしこれで問題が解決したことにはなりません。問題なのは、医療チームのメンバーが、リビアの子どもに故意にエイズウィルスを注射したことで有罪になったかどうかです。彼らが有罪となり、死刑判決を受けたという事実は、二次的な問題であって問題の核心ではありません。
死刑判決を受けたかどうか、これは私にとって重要ではないのです。罪を犯した者はその責任を取らなければならず、これはまた別の問題です。重要なのは、何故、医療チームのメンバーが子供にエイズウィルスを注射したのか、これが私の知りたい事なのです。しかしこの答えはまだ我々の手元にありません。誰が命令を下したのか?誰に言われたのか?誰かがアプローチしてきたのか?リビア、米国、イスラエル、ブルガリア、インドなどの諜報機関がエイズウィルスの入ったバイアルを渡し、子供たちに注射するように指示したのか?
この答えを追求しなければなりません。看護師が子供に故意にエイズウィルスを注射した事実が証明され、死刑判決を受けるのであれば問題ありません。彼らが実際にこの犯行を計画実行したのであれば、死刑判決は当然です。ブルガリア人、リビア人、パキスタン人だろうが、犯人に罰を下すべきなのです。しかし問題の核心は、何故、看護師が子供にエイズウィルスを注射したのかということです。過失または過誤により、バイアルまたは血液がエイズウィルスに感染したということが証明されれば、これは明らかに相当な注意の不履行または過失による事件です。こうした場合、当事者には相応の罰を下します。しかし、これが意図的な犯行であるなら、その理由は何なのでしょうか?
子供に故意にエイズ感染させる理由は何でしょうか?医療チームが400人の子供を殺すメリットとは何かを説明できるでしょうか?ブルガリアやパレスチナが、子供をエイズ感染させることで手にする利益とは何でしょうか?
400人のリビアの子供の死が、その看護師や医師にもたらす利益とは何かを考えなくてはなりません。400人のリビアの子供を殺害することから得られる利益を我々に説明できますでしょうか。ブルガリアの医療チームがリビアの400人の子供を殺すことで、ブルガリアはどんな利益が得られるのでしょうか?彼らに誰かがアプローチし、エイズウィルスを子供に注射するように言ったのなら、その首謀者が誰なのかを追求しなければなりません。意図的な犯行なら、誰の入れ知恵なのか?誰の命令なのか?そのバイアルを提供した諜報機関はどこなのか?この答えはまだ出ておらず、これを追求する必要があります。故意に注射したのは何故か?それを命令したのは誰か?それから得られる利益とは?金銭の受け渡しがあったのか?脅迫されたのか?これらの質問はまだ謎のままなのです。
私にとって、この謎が何よりも重要な点なのです。彼らが死刑となるか、釈放となるかどうかは無関係なのです。問題なのは、医療チームがエイズウィルスを子供に注射した理由です。誰が彼らに命令したのか?ウィルスを提供したのは誰か?それをどのように入手したのか?明日また同じ事件が起こる可能性もあるため、これは非常に重要な問題なのです。チームがリビア人だろうが、ブルガリア人、フィンランド人だろうが、私の関心事ではありません。重要なのは、裁判所の判決によれば、医療チームが計画的な犯行を行ったということで、その犯行の理由を我々は知りたいのです。
アブデルバセット・アルメグラヒが裁判にかけられたとき、裁判に関与した裁判官、弁護士、国際監視団から裁判所の権限に対する異議申し立てがありました。彼らは、航空会社の米国と被害者の国の諜報機関が裁判に介入したことを主張しているのです。これは、裁判が無効であることを意味します。非同盟運動、アラブ連盟、 イスラム諸国機構(OIC)、国連は、アブデルバセットは政治的な人質であり、有罪ではないと主張しました。国際監視団は、特定の諜報機関が裁判に同席しており、裁判官に耳打ちしていたと主張しています。
アブデルバセットを審理した裁判所にこうした疑惑が上がったにも関わらず、誰も彼を釈放すべきとは言いませんでした。判決を下した当事者は、裁判所の判決は既に下っているため、この件の審理は終了したのだと言います。
では、ベンカジ裁判所が下した判決を人々が認めないのは何故でしょうか?裁判所の判決に顧みず、医療チームを釈放すべきだとの主張がなされています。我々も、アブデルバセットの件では、スコットランドの判決に関係なく釈放すべきだと主張しました。それが妥当だからです。しかしこれに関しては、「釈放できない。」と言うのです。いいでしょう。それならば、ベンカジの容疑者も釈放することはできません。
これらは堕落した基準なのです。こうした二重の基準を範としながら、どうやって、各国が友好、協力、平和を確立することができましょうか。
その家族への賠償と子供の治療のために基金を設立したなどというのは、世界を愚弄する国々です。そんなのは嘘言であり、基金には何も入っていないのです。基金を設立し、この子供たちの問題に取り組んでいると主張する国々の真の姿を露呈せねばなりません。これらはペテンなのです。この基金は空であり、こうした貢献を行った国や企業など存在しないのです。
ここで、世界の世論の注目の的となっている問題について触れます。サダム・フセインは死刑判決を受けました。いつ死刑が執行されるか?明日と言う人もいれば、明後日という人もいます。
第一に、サダム・フセインは外国勢力の侵略により打倒された戦争捕虜であります。イラク軍やイラクの国民ではなく、外国勢力がイラクとその大統領を打倒したのです。大統領は監獄に入れられ、イラクは侵略と集団殺戮の対象となりました。それが真実なのです。
彼の裁判は無効です。フセインが戦争捕虜というのは、彼を逮捕した侵略勢力も認めている事実です。ハーグ条約とジュネーブ条約から見ても、彼は戦争捕虜なのです。それなれば、彼を裁判にかけることなどできましょうか?軍事作戦が終了したなら、彼は釈放されるべきなのです。
議論を進めるために、彼を裁判にかけるべきだと仮定しましょう。それならば、彼を捉えた勢力、つまり米国と英国が彼を審理するべきなのです。しかしイラクの裁判所が審理を行いました。よって、このような裁判は無効であり、ペテンなのです。
オマル・ムフタールは、イタリア人に捕らえられました。イタリアは彼の審理をリビアの裁判所に要請しませんでした。イタリア人はその名目上の裁判所を設立し、即座に彼に死刑判決を下したのです。イタリアはリビアを支配し、反対勢力の指導者を逮捕し、彼を死刑にしました。これは、暴政や植民地主義以外の何物ではなく、歴史書には、殉職者オマル・ムフタールが戦争に敗北し、イタリアに殺害されたと記録されています。
サダム・フセインを殺したいなら、米国と英国が殺せばよろしい。そして、その責任を負うのです。米国と英国の軍司令官を呼んできて、名目上の裁判所を設立し、彼を殺害する。「我々は発見できなかったが、イラク大統領のサダム・フセインは核爆弾を作っていた。よって、我々はイラクを破壊し、彼を逮捕した。もはや誰の意見も関係なく、彼は邪魔者であるから排除しなければならない。彼を殺害せねばならない。」
世界を前にして、勇敢にもこの責任を負い、彼を殺せばよい。しかし、「イラク人よ、前に出て来てサダム・フセインを審理せよ。」というのは茶番なのです。冗談のつもりでしょうか?これは欺瞞です。フセインが占領下にある今、イラク人がサダム・フセインと何の関係があるのでしょうか?イラク人はすべて占領下にあるのです。裁判官、裁判所、法律、彼らの所有物全てが占領されているのです。 裁判官自身は、その家、事務所、法律、その他のすべての所有物もひっくるめて、占領下の奴隷なのです。
この世界にまだ良心があるとすれば、国際条約がこのように侵害されているのは何故でしょうか?私自身もこの問題を他人事とすることはできません。堕落した世界、サダム・フセインの一件は、国際司法裁判所と国連総会に提起し、助言を受けるべきなのです。
国際司法裁判所は、国際法に基づき、このような人物の裁きについて決定を下すことが可能なのではないでしょうか?イラクに米国が設立した裁判所が合法で、フセインの審理に対する管轄権を有するという事に対して、意見できるのではないでしょうか。
国際司法裁判所にこうした見解を発表させると同時に、国連総会が会合を開き見解を述べるのです。 フセインを審理した裁判所の手続きのみならず、裁判所の有効性自体が疑わしいというのであれば、世界の議会である国連総会がその見解を明らかにしなければなりません。国際裁判所に、戦争捕虜を裁判にかけて良いかどうかを、我々に明言させればよいのです。 日常的に行われている集団殺戮は国際条約下における犯罪にあたるかどうか問い質したい。この責任者は誰なのか?毎日、百人もの目隠しされた死体が発見されるのはなぜか?車爆弾を使用しているのはだれか?地雷を敷設しているのはだれか?反対派による犯行なら、身分を明らかにしないのは何故か? 「シーア派、シーク派、悪魔、反対派の誰それだ。」と素性を明かさないのは何故か?
「これそれが我々の敵であり、これそれを行った。」、と犯行の首謀者が名乗り出てもいいはずです。しかし、これら作戦の責任者だと名乗り出る者は一人もいません。世界における戦争の首謀者は、すべて明らかとなっているのに対し、この作戦の黒幕が匿名となっているのは何故でしょうか?テロリスト集団と見なされるアルカイダですら、その作戦が自分達による行為だと明言しています。テロリストに分類されるアイルランド共和国軍 も、バスクのETAも、テロリストとされるザルカウィらですら、作戦の実行犯であることを明らかにしています。
攻撃能力と有力な指導者を有しているという事実を自負するため、素性を明かすことがメリットとなるのです。それでは、イラクで日常的に発生し、数百人もの命を奪う作戦の首謀者が名乗り出てこないのは何故でしょうか?専門家や科学者を殺しているのは誰でしょうか?シーア派およびスンニ派と科学者や教師の間にどんな関連性があるというのでしょうか?化学教師が殺害されました。シーア派とスンニ派に化学が何らかの形で関係しているのでしょうか?シーア派、スンニ派、悪魔に、この男が化学を教えたとでも言うのでしょうか?
我々の目前で悲劇が起こっているのに、イエス生誕から2006年、最後の預言者の逝去から1374年の経過を世界がどうやって祝うことができましょうか? イエスはこう言いました。「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。目には目を。歯には歯を。」しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」
百人、二百人というイラク人が毎日殺害されているのに、どうしてこれを黙認することができましょうか?この集団虐殺の理由は何なのでしょうか?これは、アラブ人を対象とする集団殺戮であり、アラブ人の根絶運動であると記録されるべきなのです。
国際司法裁判所と国連総会に、サダム・フセインと集団殺戮の件について言明していただきたい。この黒幕は誰なのか?その責任を追及し、犯人を裁判にかけなければなりません。
サダム・フセインがドジャイル村の殺害事件で審理されました。いいでしょう。140人の被害者がいたとのことです。しかし今では、14万人の被害者が出ています。ドジャイル村の数倍の罪が毎日犯されています。この罪の責任を取って、裁きにかけられるのは誰でしょうか?サダム・フセインのドジャイル村が犯罪で、今起こっている殺害は問題にはならないのは何故でしょうか?
これはとんでもない欺瞞です。ローマ教皇はどこにいるのでしょうか?教会はどこに?イエスはどこに?モーセはどこに?ムハンマドはどこに?仏陀は?ザラスシュトラは?孔子はどこにいるのか?世界の良心はどこに行ったのでしょうか?この世界はどれほど偽善的なものとなったのでしょうかこの罪を犯した者が現れて自白すれば、世界はこの者を糾弾することができます。
これは集団殺戮です。国際刑事裁判所が国際法と人道犯罪に関する全条約に基づき罰するべき罪なのです。
イラクで起きていることが集団虐殺であることに間違いはありません。20年前の事件に関し、サダム・フセインは140人を殺害した罪に問われました。しかし今、14万という人々が毎日命を落としているのです。今起こっている集団殺戮の罪を償わせるには、フセインの同類を何人見つけ、裁かなければならないでしょうか?
世界は恐怖に慄いています。価値のない無意味な飛語と偽善に満ちた空虚な世界です。真実を語ることのできない、卑怯で卑劣な世界。すべての宗派や宗教の信者、国家や人々の間に、黙秘の悪魔が潜んでいます。彼らは無価値で卑劣な存在なのです。こうした集団殺戮を目の前にして、世界はどうして黙っていることなどできましょうか?
最後に、この機会を活用し、大使と教会指導者の皆様方に白の書を配布したいと存じます。本書には、中東とパレスチナ問題の抜本的かつ最適、そして決定的な解決策を記しています。
パレスチナに関しては統一国家の設立以外に解決策はありません。二つの国家を設立すべきなどと主張する者は、時間を無駄に遣い、本問題について何も知らない無責任な輩なのです。パレスチナの地理やその住民について何も知らないのです。ヨルダン川と地中海の間にあるその領土に、二つの国家を設立するスペースなどありません。これらは、ユダヤ人とパレスチナ人を犠牲にするような主張です。「二つの国家」を主張する者は、ユダヤ人とパレスチナ人の将来などどうでもいいような者たちなのです。
イタリアのコシガ大統領は、かつて私が送った使節にこう言ったことがあります。「聞け!パレスチナやユダヤ人が明日どうなろうと知ったことではない。彼らが地獄に行こうが知ったことか。
問題は、我々の政権下で平和を構築できるかどうかだ。二つの国家だろうが、同類の物だろうが作ってしまえばいい。この平和が時限爆弾だということに後で気付いて、双方が爆破したとしても我々の問題ではない。」これが彼らの見解なのです。要するにこう宣言したいのです。「パレスチナ問題は、誰それの大統領の政権下で解決された。我々が交渉したことで、解決に至った。後で彼らが全滅したとしても知ったことではない。」よって、二つの国家を主張する者は、ユダヤ人とパレスチナ人を騙そうとする輩なのです。
隣にパレスチナ国家が設立されれば、ユダヤ国家の生存は難しいでしょう。説得力のある白の書を一読ください。イスラエル人がパレスチナ人を拒絶すれば、シオニスト運動は人種差別運動となり、自らに人種差別の運動家とのレッテルを張ることとなります。
「他者」を受け入れなければなりません。パレスチナ人を受け入れなければならないのです。キリスト教徒、ムスリム、ドルーズ派などを受け入れなければならなりません。この新しい国家は、レバノンのような統一国家となるべきなのです。レバノンは統一国家であり、宗派の割り当てがありますが、互いを攻撃し合うようなことはありません。最終的に、新しい国家はレバノンのような統一国家として調和を果たすのです。
「イスラチナ」(もしくは好きなように呼べばよいが)と呼ばれる統一国家を作れないのは何故でしょうか?統一国家を設立できない理由とは何でしょうか?イスラエルが「ノー」と言うなら、平和の前に扉を閉ざし、破壊を自らに招いていることを意味します。パレスチナ人は、テルアビブ、ハイファ、アッコ、ジャファを手に入れるまで、野望を絶つことはないでしょう。 平和が実現しないなら、戦争を選ぶはずです。
イスラエル人は、西岸をユダヤ・サマリアと呼び、これがユダヤ国家の中心地であると信じています。これは、西岸に計画があり、この地区を今後も保有し続けるという姿勢の表れです。今、一つの国家なのに、二つの国家の可能性など議論することができましょうか?パレスチナ人とイスラエル人は、現在、農家、工場、いたるところで一緒に働いています。敵同士の指導者ですら、夜になれば一緒に飲みに出掛けるのです。そして昼間になると怒鳴り合いをする。
自分が何を話しているのか十分に理解しています。私は真実を知っています。彼らは、夜にカードや踊りを楽しみ、朝になると、相手に戦いを挑むのです。彼らは戦争の商人で、偏狭で逆行する古い考えを持ち、互いの国民を欺く輩なのです。これで命を落とすのは、可哀そうなユダヤ人とパレスチナ人です。
新しい世代は、統一国家を受け入れる世代となります。新しい世代こそが重要なのです。パレスチナはユダヤ人とパレスチナ人のものであり、彼らは隣合わせで共存することができます。どちらも、相手を追放することなどできないのです。さらに、パレスチナから脱出した300万人は、パレスチナに帰還しなければなりません。これを受け入れないのであれば、戦争で犠牲を払い、その損失を審判の日まで被らなければなりません。最後にクルアーンと聖書の引用で締めくくりたいと思います。
世界が現在直面しているテロの危機に対する指導者の分析
この問題には2つの側面がある。 1.アメリカに対する攻撃。政治の首都であるワシントンDCと経済の中枢であるニューヨークが共に、前もって綿密に計画され、きわめて暴力的で…