敬愛なる指導者と、ロシアの下院議員、思想家、作家、著述家との会合
敬愛なる指導者:
まず最初に、リビアへようこそ。皆さんを歓迎します。また、「緑の講堂」からの招待に応じていただき、ありがとうございました。2005年3月2日に世界が聞いたとおり、私は世界中の影響力の強い活動家 — 大学教授、思想家、学生、政治家、作家など — を「緑の講堂」に招待しました。彼らに扉を開く「緑の講堂」で、『緑の書』について学んでもらうためです。
私は、世界はぜひ『緑の書』について学ぶ必要があると感じていました。そこで、人民会議に依頼して追加の特別予算を確保し、『緑の書』やジャマヒリ制度、直接投票による大衆民主制を学ぶためにやってくる学者や研究者の便宜を図ることにしました。今日は歴史的な日です。その呼びかけを受けて、この第1回会合が開かれる運びとなったのですから。
これは、友好国であるロシアから、大学教授、思想家、作家、下院議員などの方々が参加した、グローバル・レベルの会合です。政治や思想の先頭に立つ方々との、非常に重要な会合です。
われわれは、このロシアの先兵たちに、アメリカ連邦議会や中国人民会議、イギリス上下院、インドやヨーロッパの先兵たちも続いてほしいと願っています。また、国会議員だけでなく、作家や思想家、研究者や学生も来て「緑の講堂」に座り、『緑の書』を学んでほしいと思います。
私が信じるところでは、解決策は『緑の書』の中にあるが、世界はまだ、それを理解していません。世界のほとんどの国で検閲の対象となり、出版が禁じられているからです。これは、『緑の書』の目的が、世界を変えること — 不正と搾取の世界から直接投票による大衆民主制・大衆社会主義の世界に変えることだと、当局が知っているからです。権力の手綱を握っている者たちは、それを他者と分かち合うことを望みません。
彼らが『緑の書』を発禁にするのは、この本が、今まで一度も権力を持ったことも、権力の側に参加したこともない人たちを刺激して、行動を起させるからです。『緑の書』の書は一般市民、庶民、市井の人、貧しい人々など、権力や富から疎外され、弾圧的な搾取型社会で取り換えのきく雑兵として使われてきた人々を刺激し、行動を促します、そんな社会で彼らは、金持ちのおこぼれで命をつなぎ、権力と富を支配する者たちに奉仕することで生計を立てています。不公平で受け入れがたく、不当かつ独裁的、搾取的で非人間的な状況です。
われわれ素朴な大衆にとって、これは堪え難く、受け入れられないことです。われわれには国を持ち、生きる権利があります。圧倒的多数派であるわれわれは、この計画的・歴史的疎外、この虐待を認めません。
われわれは、金持ちや搾取する側の人々に奉仕することを受け入れず、搾取型社会に対して抗議します。兵士や政治家として金持ちの施設を守り、彼らの快適な暮らしを保証するのはごめんです。われわれは、独裁制を通じて力を得たエリートによって、資本家や経済や帝国主義の利益のための戦争で、雑兵として利用されることを受け入れません。素朴で貧しい一般兵は、自国の外で戦うことに興味がありません。戦いから戻っても — 戻れればの話ですが — 何か得をしたわけでもありません。それどころか、戻るときには腕や脚や視力や聴力、正気すら失っていることもあります。命を失うことさえあるのです。
今日の世界で幅を利かせているのは、弾圧と搾取のイデオロギーです。それに従えば、弾圧的な勢力が金を使うことで選挙に勝って権力を手にし、一握りの金持ちエリートが、この政治の道具を自分のために利用します。そして、素朴で貧しい圧倒的多数の人々は、彼らのために苦しみ、苦労に耐え、死ぬことを余儀なくされるのです。
この一握りの政治家や金持ちは、搾取という不自然かつ不法な手段と金を使うことで、そうした地位に就きました。そして、その金は労働者の血を吸って得たものです。
金持ちが金持ちでいられる理由はただ1つ、必要に迫られて金持ちに奉仕する貧しい人々がいるからです。彼らの血を吸い、彼らの苦労から搾取することで金持ちになるのです。こうした一握りの金持ちは、世界のどの国にもいて、現在の人類の悲劇、戦争、テロ、行動や反動の原因となっています。
権力の源は彼らです。なぜなら貧しい人は、金持ちの後押しがない限り、大統領になれません。だから、現在の権力はすべて、金の力です。民主主義は存在せず、権力の源である金があるだけです。その金は、天から降ってきて一握りの富裕層の手に積もったわけではなく、搾取の結果である不正な金です。
資本家と弾圧的な政治家というこのコンビが、世界を苦しめている不幸や問題の原因です。歴史上でも、世界中のどこを見ても、一般市民が喜んで遠い地へ行って、そこを破壊し植民地化することを望んだり必要としたりした、という例はありません。経済的な利害のある者が他者の富を欲するあまり、持っている権力を振りかざして普通の人々を我が家から追い出し、遠い地へ送る。そして、何の恨みもない他人の家に入り込み、略奪や破壊を行って、住人を殺すことを強制するのです。こういうことが、人類が経験した植民地主義のあらゆる段階で起きています。
われわれは、植民地主義は終わったと思っていました。しかし不幸なことに、それは粗暴な形で再生しつつあったのです。ただ、幸いでもあり悲劇でもあるのですが、他国を植民地化し、そこに定住して資源を握るのは、今は確かに難しくなりました。今では植民地化される側も当然ながら抵抗が可能で、非常に効果的な抵抗手段が使えるからです。
一般市民が車に爆発物を積んで、自分ごと吹き飛ばすことができます。この可能性が広まったのは、情報革命と科学・知識の普及のおかげです。武器の密輸や不正取引も、もはや規制が利かない状態です。過去に植民地主義が成功したのは、人々が今のように激しく抵抗するのが不可能だったからです。
当時は武器も限られ、工場は侵略・植民する側の所有でした。他の者は武装していなかったので弱く、自国を侵略・破壊・占領されても、なすすべがなかったのです。その頃は、人民が武器や爆発物を作るのは不可能でした、そんな物は知らなかったからです。
傲慢な権力者の中には今も、この変化を考えに入れず、過去と同じように簡単に植民地化を行える、と信じている者もいます。しかし今の植民地主義は、昔とは違って難しい事業です。それは短命で、他国に根を張ることはできません。今では相手も、武器や爆発物を製造できるようになったからです。最先端科学へのアクセスを可能にしたインターネットのおかげで、誰でも武器や爆発物を作れるようになったのです。
植民地化は今も行われていますが、今では、昔は不可能だった激しい抵抗に遭います。このような展開は、もちろん悲劇です。1人の自爆で、大勢の命を奪うことができるのですから。人道的な見地から、われわれはこれを悲劇的と言います。近代的手段で多数の人が殺されているからです。しかし植民地主義の側も、核爆弾など恐ろしい手段を持っています。不幸なことに、今では双方が破壊の手段を手にしているのです。
ただ、良い一面もあります。このせいで、帝国主義者や植民地主義者が他者の土地を奪って定住するのが難しくなったことです。しかし、そうなるまでには、双方に多大な犠牲と損失を伴います。
世界は今、危機の最中にあります。デモや抗議行動、失業やインフレが蔓延し、不平不満、逮捕、反乱、暴動、被害者があふれています。世界戦争と言ってもいい状態です。今の世界で支配的な社会的・経済的・政治的状況では、平和や安定、安全、心の安らぎ、希望はありません。
世界は、植民する側とされる側、主人と奴隷、富める者と貧しい者、という理論の上に成り立っています。賃金、雇用、不正取引、代議制・疎外・否定の理論、大衆を冷たく無視する理論に立脚しているのです。
だから、何億という人々の代表を、何百人かの個人が務めています。これは残念なことだし、馬鹿げているし、不毛です。たとえば、3億人の人口に対して国会議員が300人という国がありますが、これはお笑い事だし、不幸なことで、問題です。3億人は気付きました — 300人の代議員は、自分たちの願いを代弁しているのでも、夢を共有しているのでもない、自分たちの代表ではないのだと。そこで3億人は彼らを迂回し、この代議制は欺瞞だと声を上げます
300人の代議士をもって、彼らは3億人を代表しているのだ、と言うのは欺瞞です。300人は自身を代表しているだけで、他の3億人の代わりに夢見ることも、彼らの願いや想いを共有することもできません。
こうして代議制は失敗し、人民は先へ進みました。というわけで、人民と代議士は同じページの上にはいません。自分たちは選挙で選ばれたと主張する議会はあるかもしれないし、その選挙で不正が行われなかった例も、ないとは限りません。しかし人民はもう、議会や代議員に見切りをつけました。われわれは、彼らが街頭に出て、自分たちの要求を直接表現するのを目にしています。
これは、代議員がこうした人民の声を代弁することに失敗した、という証拠です。某国政府がイラクと戦争を始めると決めたとき、何百万もの人が戦争反対のデモを行いました。これは何を意味するのでしょう? 代議員は、彼らを選挙で選んだ人民の要求を表現しなかった、ということです。もし彼らが人民の声を代弁し、人民の願いや夢を共有していたなら、戦争に反対したはずだからです。
したがって、代議制は欺瞞であり、それが意味するのは、多くの人が独裁政権に支配され、議会に代表されていない、ということです。なぜなら、そうした議会が軍の派遣を承認したからです。人民が承認していないことを、どうして議会が承認できるのでしょう?
このように、議会は人民を代表しておらず、代議制は欺瞞です。仲介や代議制、議会を廃止せねばなりません。この茶番劇は、古代の遺物として博物館に収めるべきです。人民は自らを統治することができるのですから。しかし、億単位の人民がどうやって、自らを統治できるでしょう?
われわれは、20人、15人、10人といった数の大臣が国を治める政府や、収容人数が何十人、何百人の議場に何十人、何百人が座り、人民に代わって決定を下す議会に慣れています。しかし、人民が自分で自分を統治するには、どうすればいいでしょう?
どうすれば人民が、男性も女性も議事に参加し、自分たちの手で自らを統治できるでしょうか? もちろん、近視眼的な見方をすれば、これは不可能だと言って、数百万人を少数が代表する代議制に落ち着くことになるでしょう。しかし、この見方は間違っています。民主主義を議場の距離と大きさの問題としてとらえる見方だからです。これは正しい見方ではありません。
どこでもいいから人民のいる所で — 近所でも村でも構いません — 集まって人民会議を開催するのです。男女を問わず成人全員が参加し、自分たちがしたいことを決定する場です。これなら、もし全員がある国に対して宣戦布告すると決めたら、その戦争には正当性があります。なぜなら人民が、その隣国あるいは海や大陸の向こうの国との戦争は不可避だと感じた、ということだからです。もっとも、そうなる確率は非常に低いでしょう。
もし法律が成立したら、それは人民、つまり議事に参加した成人男女によって可決されたということになります。それなら、たとえあなたがその法律の下で死刑判決を受けても、その法律は尊重しなくてはなりません。すべての人民が、その犯罪は死刑に値すると感じて可決した法律であり、また、あなた自身も、審議の上で、そのような罪を犯した者には死刑がふさわしいと判断したうちの1人だからです。
したがって、あなたは潔くその刑を受けるでしょう。あなたも法案の起草に参加し、その法律に納得していたからです。他人が可決した法律の下でそのような刑を受けるなら不公平でしょう。その他人は、議会とか政府とか革命評議会とか呼ばれている機関かもしれません。そのような、自分が全くかかわっていない法律には、死刑だけでなく、罰金や服役、逮捕であっても、従う気になれないでしょう。
今日の世界の社会的・経済的・政治的構造の中にあるこの欠陥が、現在の世界の危機を引き起こし、自分の統治や不当な政策を正当化するために誇張や作り話をしたり、真実を歪曲したりする統治者を生み出したのです。このやり方は、人民にとっても世界にとっても無益で、問題の解決になりません。
反動が起こると、人はこう言います。「われわれに対する反動は、われわれが問題を起した相手からのものだ」
しかし、統治者は別の統治者を侵害することがあり、また自分の過ちを認めないものです。このような欺瞞や嘘は、国民のためにも平和のためにも人類のためにもならないし、そのような論理を擁護する者のためにすらなりません。社会的・経済的・政治的構造が過ちを土台としているから、すべての行動はその過ちを正当化するために取られることになり、それが不正や搾取、独裁を生むのです。人民が自らを統治せず、ジャマヒリアも大衆社会主義もありません。すべての社会関係が、不正と搾取に立脚しているからです。
人民が代理によって統治され、法律が人民によってではなく、人民の名の下で別の誰かによって可決される — これは、まやかしです。地上の富は、地上に住むすべての人のものであり、各国の富は、その国の全国民に平等に属するものです。
しかし実情は違います。権力も富も、不正な手段で今の地位を手に入れた一握りの人に支配されているます。ですから、どんな政策が進められるとしても、それはこの誤謬を正当化するためだけに考案されたものなのです。
われわれ一般市民からすると唖然とするような発言が、政府や政治家から聞こえてきます。黒を白、白を黒と言うのです。われわれには黒と見えるものを彼らは白と言い、われわれは、そのような歪曲を受け入れるものと思われています。実に驚くべきことです。実際、もしあなたが「これは白だ、黒ではない」と言えば、あなたはならず者、変わり者で、間違っている、ということになります。彼らは、あなたにこう言うでしょう。「われわれは黒と言ったのに、お前は白と言う。ということは、お前はわれわれと意見が違う。そして、われわれと意見を異にする者は誰であれ、頭のおかしいならず者だ」これは欺瞞であり誤りですが、今日、こんなことが世界中で横行しています。人民が富と権力から遠ざけられた結果です。
法律を可決し、決定を下し、政策を立てるのが人民だったら、世界は平和で落ち着いて安定した、愛と協力の世界になるでしょう。人民は互いを憎み合わず、平和と安定を求めるからです。自国を離れて他人の国を占領しようとする者もいなくなるでしょう。
自国を離れて他国を占領する軍隊は、貧しい人々で構成されています。その人々を徴兵するのは、一握りの搾取者が所有する富から生まれた不当な権威です。その搾取者が政治家を作り、政治家が貧しい人々を徴兵して軍隊を作り、国外へ出て死ねと命じる。そして、もし帰還できても、そのときには脚や腕、視力や聴力を失っています。
これが今日の世界で起こっていることです。他国を占領・破壊しに行ったこの兵士たちが、一般人として自国に留まっていたら、国境を越えてそのような忌まわしい行為をしようという気にはならなかったでしょう。しかし、命令と生活苦のせいで、政治家や搾取者のために働く兵士とならざるを得なかった。そして、兵士でいる限り、命を捨てて植民地化を進めろという命令を受けるのです。
このようなわけで、今日の世界では、『緑の書』は検閲の対象となっています。彼らは、「『緑の書』はカダフィが書いた危険な本だ」と言います。しかし実際には、『緑の書』は人類の歴史が書いた本です。
『緑の書』は、われわれが人間の歴史から学んだ教訓です。良いことも悪いことも含めて、われわれのこれまでの生き方の分析なのです。『緑の書』は、こう述べています。「これこれの問題が起こった。それは、物事にこのような対処がされなかったからだ。こう対処すれば、問題はなくなる」人々は過去、なぜ不幸だったのでしょうか? われわれが発見したのは、自由のない人は幸福になれない、ということです。
われわれは、困窮している人は自由になれないことも発見しました。ですから、自由への鍵は困窮にあり、自由の中に幸福への鍵があるのです。自由でない限り、幸福にはなれません。われわれが発見したところでは、過去に人々が幸福でなかったのは自由がなかったからで、自由がなかったのは暮らしに困っていたからです。
人が幸福になるためには自由でなくてはならず、自由であるためには暮らしに困っていてはいけない。それが『緑の書』に書かれていることです。『緑の書』は人間の歴史であり、これまでに得た教訓を根拠に、そう述べているのです。人道がそう言っているのであり、人道が『緑の書』の著者です。
しかし幸いなことに、『緑の書』とその思想のおかげで、「第三の普遍理論」が世に出はじめているかもしれません。このインターネットと衛星と情報革命の時代において、人々は「第三の普遍理論」に耳を傾け、学びはじめています。人道と『緑の書』に対してどれほど敵対的な人であろうと、『緑の書』の思想が広がるのを止めることはできません。その思想は、それを望まない者たちに構わず、広がっていくでしょう。
『緑の書』とその思想は、インターネットや現代のマスメディアを通じて、世界中に普及するでしょう。ロシア下院では、大学教授や友好的な作家たちが「『緑の書』の友の会」を結成しました。これは、『緑の書』がアメリカに到達しつつあることを意味しています。リビアのような人口の少ない国はジャマヒリア制度に適している、という人もいます。
けれども、それは逆です。小国は、『緑の書』もジャマヒリア制度も民衆の力も、大国ほど必要としません。人口が多い国ほど、ジャマヒリア制度が必要なのです。たとえば中国を例に取りましょう。1個人や1機関がこの帝国を統治するなど、考えられません。
それに、北京にいる人が、中国全土の人々の抱える問題を知ることはできません。また、どれほど誠実で賢く国民のためを思っている政府でも、中国の全人口にかかわる事すべての面倒を見るのは不可能です。百人単位の代表が、十億単位の国民の代表を務めるのは無理だからです。
人民が自分で自らを統治するにはどうすればいいか、という問題に答える途中でした。政府や代表が統治するのではなく、人民が統治するにはどうすればいいでしょう?
さきほど、人民が自らを統治するのは、1つの議場に集めることによってではない、と言いました。それは非常に浅い見方です。人民はどこへも行かず、地元で人民会議を招集し、そこで何でも決定するのです。
この人民会議は議会と違い、全人口が構成員で、例外はありません。議会(assembly)と会議(congress)は違います。議会は選挙で人民に選ばれますが、会議は全人民で構成され、除け者になる人はいません。
こうした人民会議が人民委員会を形成し、人民委員会が人民会議の決定を実行します。つまり自主管理です。ですから、全員が承認しなくては、法律は可決されません。政府や議会が法案を提出するのではないのです。
政府や議会も、出席していれば、提案する権利はありますが、一般市民でも、法律を思いついたら誰でも、それを全人民に対して提案する権利を持っています。そして、人民が承認すれば、その法律が施行されます。しかし、不正が横行している今、一般市民は疎外され、自国に法案を出すことはできません。
インドで一市民が「素晴らしい法律を考えついた」と言ったら、耳を傾ける人がいるでしょうか? 1人もいないでしょう。この人にそんな能力はない、と思われてしまうからです。なぜでしょう? 代表のせいで、市民は意志も、尊厳すら奪われているからです。選挙で自分の代理として代議員を選んだからには、あなたは彼の選挙民の1人であり、彼が法案を出すのです。
では、一般市民は彼にコンタクトできるでしょうか? できません。あなたと彼の関係は、あなたが投票箱に一票を投じた日に、完全に断ち切られてしまったからです。彼は代議員となり、あなたは何も持たない一市民となりました。法案を出したり、決議したりする権利があるのは代議員です。人民を構成する何百万人もの人々、全国民は、その権利を持たず、無視されます。
国民が無視され、何の権利も持たないなら、代議制や政府などの仕組みを含めて、こうしたやり方を取る必要性がどこにあるのでしょう?
このことは、現在世界中に存在するこうした仕組みや構造が無価値であることを示しています。代議員や統治者、階級、政党を一掃し、人民に自分で自分を統治させることが絶対に必要です。政党制自体、古来の構造の中で使われてきた時代遅れの道具であり、今の時代の課題や必要に応えられません。
現在使われているカテゴリーや構造は、すべて時代遅れです。大衆の流れや要求、必要や課題は、政党制の構造には大きすぎるのです。政党制は博物館に収めるべきものです。たとえば、ロシアから来た友人である皆さん — 下院議員、大学教授、作家、ジャーナリスト — との対話が続けば、ロシアの国民を納得させることを考えはじめることが可能になるでしょう。
これに関連して、ある友人から尋ねられた質問に答えたいと思います。暴力抜きでジャマヒリアを確立することは可能か、という質問です。暴力は全く必要ありません。必要なのは説得だけです。
もし皆さんや他のグループの努力でロシア国民に、権力は人民会議や人民委員会を通じて人民だけのものであるべきだ、ということを納得させられれば、共和制からジャマヒリアへ、不正と独裁から直接投票による大衆民主主義へと、余分な段階を経ずに直接移行することができるでしょう。
マルクス=レーニン理論やマルクスとエンゲルスの思想はユートピア思想で、適用されれば地上の楽園が誕生したでしょう。しかし、ユートピア的(夢想的)であったがゆえに成功しませんでした。実現を願いながら果たせなかった、“失われた楽園”です。共産主義は達成できませんでした。
われわれは、共産主義のイメージは持っていますが、実際に見たことはありません。なぜなら、それは長い過程です。国家の段階を経て、「働かざるもの食うべからず」をスローガンに掲げる社会主義の段階へ。社会主義から、さらにいくつも段階を経て共産主義に到達し、スローガンは「能力に応じて働き、必要に応じて得る」に変わります。これが達成されるのは、いつでしょう? 生産が蓄積し、財産が共有となり、プロレタリアすらなくなって、全人民が1つの階級になるときです。
実現していたら素晴らしいことでしたが、実現しませんでした。われわれは、そこに到達する前に疲れてしまったからです。共産主義が実現しなかったのは、理論に欠陥があったからです。
どうすればいいのでしょうか? ここから得られる教訓は、段階を省略できる可能性があるなら、その可能性をつかむべきだ、ということです。たとえばロシアでは、現役の下院議員や大学教授、学生、知識人を通じて、静かに『緑の書』を教え、配付することができます。
そうなれば、ロシアは現在の体制から、直接投票による大衆民主主義であるジャマヒリアに移行するでしょう。全世界がいつの日かジャマヒリア制度を採用するのは確実です。われわれは今、1つの段階を通過しているだけですが、世界のすべては前進しており、そうである限り、世界は暴力抜きで確実にジャマヒリアに到達するでしょう。暴力は全く不要です。
『緑の書』はカダフィの作だから、暴力や武器使用に関連しているに違いない、と考える人たちもいます。これは『緑の書』に対する無知を反映しています。彼らは『緑の書』を読むべきです。『緑の書』に書かれていないことを「書いてある」という、誤った声も耳にします。
『緑の書』には、コーランが社会のシャリーア(法)でなくてはいけないと書かれている、と言われます。しかし、これは『緑の書』とは全く違います。『緑の書』が言っているのは、どんな社会にも神聖な法がある、それは慣習や宗教である、ということです。つまり、コンセンサスの下に尊重されているモーレス(道徳観を具現した慣行)や伝統のことです。
ある社会が何らかの宗教を信じているなら、それがブッダの宗教であれ、ムハンマドあるいはイエスの宗教であれ、それは固定化し、変えられない法です。どの民族にも独自のモーレスや伝統があり、これは社会の進化を通じてしか変えられません。上からの命令ではダメなのです。人間は昔から常に、行動について特定の決まりに合意してきました。それが本物の不変のシャリーアであり、議会や政府はそれを変えられません。
それは何かを信じることですが、信じる対象はコーランとは限りません。コーランなのは、ムスリムにとってだけです。ムスリムについて話すときは、コーランはシャリーアだと言います。それは、イスラムを信じる人々皆にとっては、コーランがシャリーアだからです。聖書やトーラー、ブッダやゾロアスターや孔子を信じる人々にとっては、その信仰が神聖で不変のものであり、シャリーアなのです。
憲法など、いわゆる法律については、議会が明日開かれて憲法を変える、ということもあり得ます。憲法は世界のどの国でも、いつでも変えられるのですから。一握りの人間がこのような部屋に集まって変えることのできるものは、信用も信頼もできません。しかし、進化を通じてのみ変わるものなら、信用し信頼することができます。
『緑の書』は、あなたがムスリムならあなたのシャリーアはコーランである、と述べています。でもムスリムでないなら、あなたのシャリーアはあなたの聖典に基づくものです。どの国にも、その国のコーランがあります。それを聖書と呼ぶ国もあれば、トーラーと呼ぶ国もあり、名前はそれぞれ違いますが。このような記述が誤って『緑の書』のものとされています。『緑の書』は正確に翻訳しなくてはいけません。私は一部の翻訳に混乱があるのを見たことがあります。たとえば、英語版にはparticipation(参加)という単語がありますが、この言葉は正しくありません。人民の参加の問題ではなく、人民にパートナー(共同参加者)がいないのです。
『緑の書』がそのように翻訳されると、アラビア語と意味が違ってきます。私はさっき、この会合、この日は歴史的だと言いました。私は今年2月2日、「緑の講堂」に来て『緑の書』について学んでほしいと各国に呼びかけるグローバル・アピールを出しましたが、それに対する記念すべき最初の応答だからです。
われわれの目的は、リビアの利益ではなく、人類が現在直面している危機を解決することでした。不正と搾取の社会、植民地主義、テロ、武器、独裁、貧困、搾取的資本主義をなくすことを目指したのです。
われわれの願いは、世界という病んだ体を治療して病を除き、再生することでした。それが、あらゆる国や民族の人々を「緑の講堂」に招待した目的です。それらの人々、ひいては人類の利益のためです。『緑の書』や「緑の講堂」に敵対する人たちは、人種差別、盲信的愛国主義、自己陶酔という病にかかっているのです。しかし、これは人間らしい考えでしょうか?
学んだ上で、役に立つと思うなら、なぜ喜んで受け入れないのでしょう? 世界の哲学者や分析家、預言者は皆、われわれ全員のものです。われわれは彼らの言うことを学び、言葉を引用し、彼らの思想から恩恵を受けています。もし彼らを除外したら、われわれは心の狭い人種差別主義者ということになるでしょう。
ならばなぜ、『緑の書』を拒否しなくてはいけないのでしょうか? 読んで学び、その後に評価を下すべきです。エンゲルスやスミス、バクーニン、モンテスキュー、ルソー、トルストイの思想は、世界のものです。イブン=ハイヤーンやアヴィセンナ、アル=ラージーの思想を拒否するのは、世界から天文学や数学、海洋科学、医学を奪うのと同じことです。
アヴィセンナは医学において、すべての人間に恩恵を与えました。ムスリムで東洋人だからという理由でアヴィセンナの思想を拒否していたら、世界はその大きな恩恵を受けられなかったでしょう。薬のことをメディシン(medicine)と言いますが、ロシア語では何と言いますか? 「Ibn Cina」ですか?
聴衆の1人:「Ibn Cina」です。
敬愛なる指導者:世界のどこでも見うけられるこの「cine」は、アヴィセンナにちなんでいるに違いありません。ですから医学に対するアヴィセンナの貢献は、世界全体のものです。もし彼が偏見や無知、狭量のせいで拒否されていたら、われわれは医学を奪われ、医学はまだ揺籃期にあったでしょう。
もしわれわれが、ジャービル・イブン=ハイヤーンやイドリーシー、アブー・バクル・アル=ラージーの思想に抵抗していたら、今の世界に恩恵を与えている学問の多くを失っていたでしょう。代数はジャービル・イブン=ハイヤーンが発明し、医学はアヴィセンナが発明した。天文学や海洋科学も、ムスリムの東洋人科学者のおかげで発達したのです。
もしわれわれが偏見を持ち、この者は東洋人だ、あの者はムスリムだ、などと言っていたら、われわれが今、恩恵を受けている天文学や医学や他の多くの学問が失われていたはずです。
同様に、もしわれわれが、電気や電話は西洋のキリスト教徒が発明したものだなどと言ったら、われわれは偏見を抱いていたことになり、自分たちの損になったでしょう。ですから、電気を発明したのはムスリムではないけれど、われわれムスリムもその恩恵を受けている。そして、医学を発明したのはキリスト教徒ではないけれど、キリスト教徒もその恩恵を受けている。『緑の書』にも同じことが言えます。
『緑の書』に抵抗する人は誰であれ、心が狭い、病んだ人で、精神療法が必要です。なぜこのような思想がリビアから現れたのか、と不思議がられます。このような憎悪は病的です。リビアと紛争中なら別ですが。しかし、ギリシャの有名な歴史家ヘロドトスが言ったように、「リビアから新たなものが来る」のです。
ですから、兄弟たちよ、気をつけていてください。もしかしたらリビアから、新しいものが来るかもしれません。湾岸や海や石油や国境をめぐってリビアと紛争中なら別ですが、「リビアから出た本だから、私は読まない」とは言わないでください。
さて、もし西欧諸国の統治者が「緑の講堂」に来て『緑の書』について学べば、彼らもわれわれと共に、グローバルな危機の解決と世界の病を治すことに貢献することになるでしょう。
私は実は、午後の昼寝の時間を、この会合のために短縮しました。皆さんは重要な使節団ですし、私が今年2月3日に出したグローバル・アピールに応答してくれた最初の使節団だからです。これが刺激となり、また、これを手本として、他の国々も来てくれれば良いと思いました。皆さんが先兵としてロシアからいらしたように。皆さん、どうもありがとう。またお会いしたいと思います。
ラジャブ・アブ・ダボス博士:まず、お言葉をいただいたことにお礼を申し上げます。そして、『緑の書』には有害な力がある、と述べた者たちの1人について話したいと思います。ソルボンヌの教授であるエドモン・ジョフィは著書『カダフィ:私の見方(Algathafi: My Vision)』の中で、こう言っています。
「カダフィが原子爆弾や核兵器を諦めたのは、作れなかったからではない。それよりはるかに強力な武器があるからだ。それは建物ではなく、旧体制を破壊する。だから旧体制は彼を敵視するだろう」
敬愛なる指導者:ハイカルを聞いていたところ、繊細な力と粗暴な力の話をしていました。彼が言うには、繊細な力や文化や思想が勝利し、爆弾や鋼鉄は敗北する、と。『緑の書』は繊細な力だから、勝利するでしょう。
ラジャブ・アブ・ダボス博士:敬愛なる指導者閣下、みやげを持ってきたので差し上げたい、という同志たちがいるのですが。
敬愛なる指導者:どうぞ。
別の人:これはロシア連邦の国章、双頭の鷲と勝利の騎士です。
別の人:私はアゼルバイジャン共和国出身です。アゼルバイジャンの指導者は7年前、あなたを訪問しましたが、以来、国内に多少の変化がありました。その変化を知っていただくため、この本を差し上げたいと思います。私は申し上げたいのですが、指導者というのは常に、素晴らしいが困難な仕事です。社会的関係や政治的関係をうまくさばくのは非常に難しいことですから。しかし民衆同士は文化を通じて、互いをもっとずっと速く理解します。
そこで、コーカシアの民族音楽をお贈りしたいと思います。音楽には踊りが付き物なので、この国立舞踊団の写真も差し上げます。(写真数枚)
敬愛なる指導者:その使節団は、私を訪ねてきたとき、アメリカが破壊した家を見て、アゼルバイジャン共和国内に家を1軒くれました。
別の人:革命指導者ムアンマル、ロシア国会内の一作業部会を代表して申し上げます。この部会は、現代社会における民主主義の問題点を研究しています。私たちは、あなたの本をよく知っており、その関係で、同書に含まれた思想や、あなたの思想や功績に敬意を抱いています。
私たちは、大いなる感謝の印に、わが国の文化のシンボルを差し上げたいと思います。これが、私たちの文化のシンボルで、ロシアの豊饒、子孫繁栄、人生の充足を表したものです。貴国の大切な人民のために、勇気、堅実、引き続いての勝利、繁栄をお祈りします。
別の人:指導者閣下、あなたは今日、戦争の犠牲者や、そうした戦争で人民や兵士が味わった苦しみについて、いろいろ話をされました。私はたまたま、この12年間、世界各地の交戦地域で働いており、その経験を受けて、こうした戦争で戦った人たちと彼らの人生についての本を出版しました。この本が、世界で何が起きているかを私たちが知り、理解するのに役立つのでは、と思います。
別の人:指導者閣下、私は22年前、友人から『緑の書』を教えられ、それ以来、お会いできる日を夢見てきました。ロシアとモスクワの革命運動を代表して、この本を差し上げたいと思います。ロシア国会とメディアについての本です。それと、この本にサインをいただけますか。私たちは、この本のロシア語版を首を長くして待っております。
出席した兄弟たちの氏名:
1- ラジャブ・アブ・ダボス博士:ジャマヒリア思想アカデミー会長、「緑の講堂」事務総長
2- オレグ・シュモリン:博士、ロシア下院教育・科学委員会第一副委員長、労働党審議会議長、共産党ブロック
3-セルゲイ・バボフ:5者グループ・メンバー、憲法起草・国家建設委員会委員、無党派
4-アレクサンドル・クレヴォボコフ:モスクワ『太陽』紙編集長
5-デイヴィッド・カーティバン:ロシア下院議員補佐
6-ヴァディム・コズミン:レニングラード地方議会議員、歴史学者、ジャーナリスト、歴史学博士
7-ミハイル・パチンコ:歴史学修士、レニングラード・プーシキン大学
8-ディミティ・ガンテフ:アフリカ研究教授、モスクワ国立大学アジア・アフリカ研究所およびロシア科学アカデミー東洋学研究所教授
9-ファシー・バドルカン:歴史学博士、ポリティカル・クラブ(ロシア政治の専門家向けの総合分析を行う一派)メンバー、ロシア科学アカデミー勤務
10-ナタリア・ロマノフ:ロシア科学アカデミー東洋学研究所およびモスクワ国立大学アジア・アフリカ研究所 歴史学教授
11-アスカル・ベイ・エドゴフレフ:マイコブ技術大学哲学教授
12-ループ・ブリクバト:教育・教員大学(シベリア)哲学教授、『太陽』紙記者
13-アジョール・チュルチェンコ:統一ロシアブロック・メンバー、ロシア下院北東・極東ロシア問題メンバー、統一ロシア党中央評議会委員
14-ワレンティナ・サノア・セティアノワ:祖国ブロック、ロシア下院労働・社会問題委員会委員、ロシア生活党員
15-キム・アーマド・コシェフ:アフリカ・アジア人民と連帯・協力する会副会長、連邦評議会外務委員会補佐
16-グレゴリー・プラチキン:政治学修士、ロシア下院の動向の専門家
17- ウラディスラフ・シュボルキン:『ザヴェトラ』紙副編集長、ロシア作家組合会員
18-ヴィクトル・アレクシスニス:祖国ブロック、ロシア下院天然資源委員会委員、祖国党副総裁
19-ワレリー・コワレンコ:哲学教授、モスクワ国立大学ロシア・世界政策学科長
世界が現在直面しているテロの危機に対する指導者の分析
この問題には2つの側面がある。 1.アメリカに対する攻撃。政治の首都であるワシントンDCと経済の中枢であるニューヨークが共に、前もって綿密に計画され、きわめて暴力的で…