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会議 - 20 4月، 2024

敬愛なる指導者がティンブクトゥで各国首脳や世界中のムスリムの先頭に立って礼拝した折に行った、新たな課題についてのスピーチ

「見よ! まことにアッラーと天使たちは、聖預言者を祝福する。信仰する者たちよ、あなたがたは彼を祝福し、敬意を払って挨拶しなさい」

 

本日、人類史上偉大な日を迎え、われわれはティンブクトゥという歴史的な街から、このイスラム教国と世界に語りかけます。ラビーウ・アルアウワル月12日月曜日の今日、この人類史上の素晴らしき日に、全預言者の封印であるムハンマドは誕生しました。全預言者の封印である彼が没したのも同じ日です。

 

人類には2つ、特に記念すべき日があります。1つはイエス — 彼に平安あれ — が生まれた日です。イエスの誕生は実に神の奇跡の1つだったからです。もう1つは今日、全預言者の封印が生まれ、また亡くなった日です。まさに今日この日、イエスの誕生から633年後のラビーウ・アルアウワル月12日月曜日に、全預言者の封印であるムハンマドは死にました。その日以来、もはや天から地と人間への啓示はありません。天は黙し、最後の審判の日まで沈黙を保つでしょう。「使徒たちが定められた時に召集されるとき、いつの日まで猶予されたのか。裁きの日までである」人類は、天からの最後の言葉を、ムハンマドを通じて聞いたのです。

 

残念なことですが、現在われわれが読んでいる歴史は虚偽です。真実が欠けているのです。彼らは、ムハンマドはアラブ人やムスリムのためだけの預言者であるとの、誤った考えを持っています。これは間違いです。ムハンマドは、すべての人間のための預言者で、彼のメッセージはそれ以前の信仰に取って代わりました。もしムハンマドが啓示を受けたときイエスが存命だったら、彼の信者になったでしょう。誰もがムスリムでなくてはなりません。それが神の望みです。しかし、それを達成するのは簡単ではありません。

 

アッラーの前の宗教はイスラムです(神の御心のままに)。「.イスラム以外の宗教を欲する者は、決して受け入れられない。また来世においては、これらの者は(すべての精神的善を)失った者の仲間である」アブラハムもヤコブもイサクもイシュマエルも、12支族もムスリムでした。預言者は皆、イスラムを説き勧めたのであり、ムハンマドはそうした預言者たちの封印でした。

 

われわれは、預言者ムハンマドを侮辱した者がいるとの話を聞きました。ムスリムは大いに怒りました。彼らは、この行動は自分たちの預言者に対する名誉棄損だと考えたのです。しかし、ムハンマドを侮辱した者は誰であれ、実は自分自身の預言者を侮辱したのです。ムハンマドはスカンジナビアやヨーロッパ、アメリカ、アジア、アフリカに住む者の預言者だからです。スカンジナビアの人々が学ぶカリキュラムには欠陥があり、憎しみをかき立てます。彼らは、ムハンマドは自分たちの預言者ではないと考えました。しかしムハンマドはすべての人間の預言者です。

 

もしわれわれが、自分は表現の自由の支持者であると主張したなら、頭に核爆弾を載せたイエスの絵を見ることになると予想したでしょう。イエスの信者たちが核爆弾を製造したからです。

 

彼らは、頭に小さな手製爆弾を載せたムハンマドの絵を描きました。ムハンマドに罪はありません。彼は爆弾とは無関係です。彼らは、ムハンマドの信者たちが爆弾を使っていると言いたかったのです。イエス(彼に平安あれ)にも罪はなく、核爆弾とは無関係です。しかし彼の信者たちが核爆弾を開発したのです。もしわれわれが表現の自由や報道の自由を主張するなら、頭に核爆弾を載せたイエスの絵を見ることになると予想します。しかしムハンマドは手製爆弾と無関係だったし、イエスも核爆弾と無関係でした。彼らはムハンマドがベールを付けた女たちに囲まれている絵も描きました。ムスリムの女性はベールを付けるからです。われわれは、裸の女に囲まれたイエスの絵を見ることになるでしょう。キリスト教徒の女性は裸だからです。スカンジナビアの女性は裸で、イエスの信者と称しています。無論、イエスに罪はありません。彼は裸の女と無関係だし、ムハンマドは顔を隠した女と無関係です。なのに、彼らが頼みとする出版の自由は、女に囲まれたイエスを描くことを要求するのです。ちょうどムハンマドが女に囲まれた姿で描かれたようにです。

 

西洋のヨーロッパやアメリカのアプローチは、いずれ憎しみを生むでしょう。そのアプローチは堕落しており、非人間的で欠陥があります。いわゆる旧約聖書(Old Testament)と新約聖書(New Testament)は、古い聖約(testament)と新しい聖約ではありません。

 

この2種類の聖書はイカサマです。聖書はイエスより何百年も後に書かれました。聖書には、イエスやモーセらしくない言葉が含まれています。もしわれわれが本気で人類の歴史上の事実を明らかにすることを望み、グローバル化のもたらしたグローバル・ビレッジ(地球村)で暮らしたいと思うなら、本物の聖書を探さなくてはなりません。現在われわれが持っている聖書は偽物だからです。

 

今日皆さんが持っている聖書には、ムハンマドへの言及がありません。神が啓示した聖書には、ムハンマドが繰り返し出てくるのにです。

 

われわれはバルナバ(使徒バルナバ)による福音書を探す必要があります。それが真の聖書、ムハンマドについて詳しく述べている聖書です。ムハンマドはイエスの後に到来し、イエスの信仰に代わる信仰を広める、万人のための神の使いです。

 

イエスは真の聖書の中で、こう言っています。現在出回っている偽の聖書ではありません。これが神の言葉です。

 

マリアの息子イエスは言いました。「おお、イスラエルの子らよ! 私はアッラーがあなたがたに(遣わした)使徒である」イエスは実際、イスラエル人に向けて話していたので、メッセージを伝えた先はイスラエルだけで、他国ではなかったことになります。ヨーロッパはイエスの宗教と無関係、アメリカもイエスの宗教と無関係、アフリカもイエスの宗教と無関係です。イエスは彼らに言いました。「おお、イスラエルの子らよ! 私はアッラーがあなたがたに(遣わした)使徒であり、私より以前(に来た)律法を確証する」 ということは、彼はイスラエル人に向かって話していたのです。イエスが持ちだしたのは旧約聖書の話ではなく、モーセ書のことです。言い換えれば、彼はモーセの信者たちに、モーセの宗教を捨ててイエスの宗教を受け入れるよう勧めているのです。同じ理由で、イエスの信者はイエスの宗教を捨て、イエスの後に到来したムハンマドの宗教を受け入れなくてはなりません。

 

もしイエスが到来したときモーセが生きていたら、喜んでキリスト教を受け入れたでしょう。モーセの宗教に従い続けてイエスに従わなかった者たちは、間違っていたのです。ムハンマドが到来したときイエスが生きていたら、喜んでイスラムを受け入れたでしょう。イエスの宗教に従い続けてムハンマドに従わなかった者たちは、間違っていたのです。

 

われわれはティンブクトゥから、人類の歴史を正そうと努めています。イエスは言いました。「おお、イスラエルの子らよ! 私はアッラーがあなたがたに(遣わした)使徒であり、私より以前(に来た)律法を確証し、私の後に1人の使徒が現れるという嬉しい知らせを持ってきた。その者は名をアフマドという」この文章は、今日の聖書の中にあるでしょうか? ありません。しかし、イエスはイスラエル人にこう言いました。ということは、彼らはイエスの言葉を削除したのです。神はわれわれに言いました — これらの言葉が聖書から削除されたのは、イエスが自分の後に別の預言者が来る、その者の名はアフマド、つまりムハンマドだと言ったからだ、と。ですから、彼らが聖書と呼ぶ本は、神がイエスやモーセに啓示した聖なる書ではありません。

 

彼らがわれわれと平和共存したいなら、聖書に対する西洋のアプローチを見直す委員会を設立しなくてはいけません。聖書は偽物だからです。

 

学校のカリキュラムを見直すためのアメリカやイスラムの委員会が、イスラム諸国に設立されました。アメリカやヨーロッパのカリキュラムを見直すためにも、イスラム/アメリカの委員会を設置すべきです。

 

ちなみにモーセはコーランに16回出てきます。われわれはなぜ、そうした記述を削除しなかったのでしょう? コーランは神の言葉であり、われわれが神の言葉を削除するわけにはいきません。そんなことをしたら不信心者です。しかし彼らは、新約聖書や旧約聖書からムハンマドに関する記述を全部消してしまいました。われわれは彼らに、バルナバ福音書の出版を要求します。コーランには、マリアが33回出てきます。われわれはなぜ、そうした記述を削除しなかったのでしょうか? なぜならそれは神の言葉で、われわれが変えるわけにいかないからです。

 

イエス(彼に平安あれ)はコーランに25回出てきます。われわれはその記述を改竄するわけにいきません。神の言葉だからです。コーランはマリア、モーセ、イエスを褒め称え、彼らが神聖な存在であることを認めています。しかし、聖書にムハンマドは登場しません。昔は言及があったにもかかわらずです。神はムハンマドに言及したのです。ですから、聖書はまがい物です。コーランだけは違います。神は預言者ムハンマドに「人びとよ、私はアッラーの使徒として、あなたがた皆に遣わされた者である」と言わせ、すべての人に、自分の使徒に従うようにと呼びかけます。旧約聖書にも新約聖書にも登場した、文盲の預言者です。しかし、現在出回っている聖書には、この記載がありません。ということは偽物なのです。

 

皆さん、動転することはありません。神はこうも言っています。「彼こそは、導きと真実の宗教を持たせて、御自分の使徒を遣わされた方。たとえ多神教徒たちが忌み嫌おうとも、(それ=イスラム)をすべての宗教の上に高く掲げさせられる」

 

神はこの一節を、コーランの2つの章で2回繰り返しました。「たとえ多神教徒たちが忌み嫌おうとも、(それ=イスラム)をすべての宗教の上に高く掲げ」るためです。

 

動転しないでください。ムハンマドの宗教は、たとえ彼らが忌み嫌おうとも、他のすべての宗教に打ち勝つでしょう。神が、そう言われました。

 

イスラムを広めるのに、剣や爆弾は必要ありません。ヨーロッパには5千万人のムスリムがいます。神がヨーロッパでイスラムを高く掲げるだろうという兆しもあります。銃も征服も抜きでです。5千万人のヨーロッパのムスリムは、ここ何年かでヨーロッパを変化させ、イスラムの大陸にするでしょう。

 

神は、イスラム教国であるトルコが欧州連合(EU)に加入するよう定めました。ヨーロッパの5千万人のムスリムは、やがて1億人に増えるでしょう。ボスニアはEUのメンバーですが、イスラム教国です。というか、人口の少なくとも50%がムスリムです。統計によれば、ヨーロッパには数千のモスクがあります。イスラム教の組織や団体も、ヨーロッパに何千とあります。

 

ヨーロッパもアメリカも、もう後がない状態です。いずれはイスラム教国になるという事実を受け入れるか、ムスリムに対して宣戦布告するしかありません。コーランにあるとおり、ムハンマドがすべての人間の預言者である限り、すべての人々がムハンマドの呼びかけに応えるべきです。神はムハンマドに言いました。「すべての人間に巡礼を呼びかけよ。彼らは徒歩で、あるいは、いるだけの痩せたラクダに乗って、すべての深い谷間から、あなたの許に来るであろう」神はムハンマドに、全ての人間を招いてメッカへ巡礼に来させよと求めました。アラブ人だけでもムスリムだけでもありません。それは、ムハンマドがすべての人間のための預言者で、地上で初めて神に祈りが捧げられた家はメッカにあるからです。

 

神はコーランの中で、こう言っています。「人間のために建てられた最初の(礼拝の)家は、バッカのそれであり、すべての生きものへの祝福と導きに満ちていた」神は人間と言っています。アラブ人でもムスリムでもありません。世界中の人々のことです。これは地上で神に祈るために建てられた家であり、すべての人間のために建てられました。「そこへの巡礼は、そこに赴く余裕のある人々に課せられたアッラーヘの義務である」神は、アラブ人やムスリムは巡礼に出るべきだ、とは言っていません。すべての人々と言ったのです。さらに、こうも言っています。「思い出しなさい。私はこの家を、人々が集う場所、安全な場所として設けた」“集う場所”ということです。メッカに巡礼に行き、カアバのまわりを回り、サファーとマルワの間を歩き、アラファト山に立ち、アカバの悪魔の石柱に小石を投げる権利は誰にでもあります。

 

アラブ人やムスリムだけでなく、すべての人が、カアバのまわりを回ることを求められています。カアバは万人のための神の家だからです。アラブ人やムスリムだけでなく、すべての人が、サファーとマルワの間を歩くことを求められています。アラブ人やムスリムだけでなく、すべての人が、アラファト山に登ることを求められています。すべての人が、悪魔の柱に石を投げることを求められています。

 

今日の状況は、われわれが犯した間違いです。何が、どんな理由で、人々が神の家へ巡礼に行くのを妨げるのでしょう? ユダヤ教徒やキリスト教徒は、ユダヤ教やキリスト教を捨ててムハンマドの呼びかけに応えることを求められているのに、なぜカアバのまわりを回ろうとしないのでしょう?

 

神はムハンマドに言いました。「ムハンマド、人々にカアバのまわりを回るよう求めなさい」神は、それは人々が神に対して負っている義務だと言いました。彼らはやって来て古き家のまわりを回らねばなりません。われわれには、彼らがそうするのを妨げる理由はないのです。

 

もしフランスかアメリカかイタリアの大統領があなたの許に来て、「私は呼びかけに応えてカアバのまわりを回りに行く」と言ったら、何と答えますか? われわれに異議はありません。コーランに1つだけ、こんな一節があります。「あなたがた、信仰する者たちよ! まことに多神教徒は不浄である。だから彼らのこの年以降、彼らを聖なるモスクに近付けてはいけない」われわれは彼らに、「あなたは不浄な多神教徒だ」と言いますか? ダメだと言いますか? 巡礼に来たアメリカ大統領に対して、「あなたは不潔な多神教徒だ」と言いますか?

 

彼はこう答えるでしょう。「私は“多神論者”でも“不浄”でもない。なぜ、そんなふうに責めるのだ? もし私が不浄なら、あなたはなぜ私と握手し、共に飲み食いするのだ? なぜ私の友となり、私を味方と見なすのだ? 私が不浄なら、私に触らないでくれ」彼は、「私は不浄でも、多神論者でもない」と言って、あなたが売買に使うドル紙幣を差し出し、こう言うでしょう。「ほら、あなたも使うドル紙幣に書いてある言葉を読んでごらん」通訳によれば、そこには「われらは唯一神を信じる」と書いてあります。

 

多神教徒や不浄な人は、聖なるモスクに近付くことはできません。しかし、多神教徒とか不浄な人とかいうのは誰のことでしょう? 啓典の民は誰ひとり、自分は多神教徒で不浄だとは言わないでしょう。コーランによれば、多神教徒や不浄な者はハッジ(巡礼)を行うことができません。しかし啓典の民は、多神教徒でも不浄でもないのです。

 

これが、この偉大な日にティンブクトゥから現れる新たな論争の種、新たな課題です。世界は今日、これまで当然と思い込んでいた事情を見直しています。

 

私の手元に、いくつか統計があります。現在、ヨーロッパには5千万人のムスリムがいて、1万4000のモスクやイスラムセンター、1500のイスラム団体や組織があります。この数は今後、間違いなく増えるでしょう。トルコやボスニア、アルバニアは別勘定でです。その結果、神がコーランで述べた言葉が現実になろうとしています。「彼こそは、導きと真実の宗教を持たせて、御自分の使徒を遣わされた方。たとえ多神教徒たちが忌み嫌おうとも、(それ=イスラム)をすべての宗教の上に高く掲げさせられる」

 

イスラムは人間の運命であり、人類の宗教です。神の言葉であり、神の意志なのです。神は偉大です。

 

これは新たな課題です。世界は、ティンブクトゥからわき起こるこの新たな鳴動を、間もなく耳にするでしょう。

 

今日は本当に素晴らしい日です。全預言者の封印が誕生し、亡くなった日です。暦はイエスの誕生 — 彼の誕生は奇跡でした — と、全預言者の封印であるムハンマドが亡くなった日を基準にすべきです。イエスの誕生という奇跡から2006年、全預言者の封印の死から1374年が過ぎました。ですから人類は、日付を記録するとき次のようにすべきです — “預言者の死から1374年後にあたる西暦2006年”。この問題が世界にとって明確になったはずです。

 

なぜわれわれはこの課題を提示する場として、イスラム世界の他の場所ではなくティンブクトゥを選んだのか、と疑問に思われるかもしれません。それに対して、私はこう答えます — なぜならこの村、というよりオアシスですが、ここは宗教的に見ても社会的に見ても歴史的な場所だから、と。

 

ティンブクトゥはかつて、アフリカ大陸全体のみならず全イスラム世界を照らす、イスラムの光の源でした。そのことは、ティンブクトゥの人々にとって非常な名誉でした。ティンブクトゥは地平線上に輝く灯火(ともしび)だったのです。この砂漠の真ん中のオアシスで、神の言葉を広めることに一生を捧げた学者たちもいました。しかしその後、あることが起こります。

 

神の敵たちが聖典を変えたのです。彼らは、神の預言者すべての封印であるムハンマドの敵であり、神の書であるコーラン、“虚偽は前からも後ろからも近付くことはできない”書の敵です。コーランは神によって元のまま保存されているので、変えられることはありません。しかし神によれば、他の聖典は変えられ、虚偽が入り込んでいます。

 

モーセの石版やダビデに啓示された詩篇、サレ、イドリース、ノア、エリシャ、ズル=キフル、ユーヌス(別名タル=ヌーン)の契約はどこでしょう? こうした聖典には虚偽が入り込み、損なわれています。バルナバの福音書はどこでしょう? 彼らはそれを燃やしましたが、神は「虚偽は前からも後ろからも」コーランに「近付くことはできない」と言いました。皆さんは、ムスリムがモーセやイエスやマリアを冒涜するのを聞いたことがありますか? われわれは単純に、できないのです。そんなことをすれば、われわれ自身の預言者や、他の認知された預言者を冒涜するのと同じことですから。

 

一市民から、この課題への対応として、男の子が生まれたら全員にムハンマドかアフマド、女の子ならファーティマ(ムハンマドの娘の名)かアーイシャ(ムハンマドの妻の名)と名付けてはどうか、と手紙をもらいました。

 

神の書を嫌う者たちは、大砂漠の中にティンブクトゥという灯火があると聞き、その光を消そうと決意して、ティンブクトゥ探しに乗り出しました。ヨーロッパはティンブクトゥを探しはじめましたが、場所が分かりませんでした。当時は地図がなかったからです。

 

彼らはチュニジアを占領しました。その前にアルジェリア、セネガル、チャドもです。彼らは大砂漠に探検隊を送り、その1つはニジェール川を航行しました。ティンブクトゥの人々は探検隊に訊きました。「ここで何をしているのだ?」彼らは答えました。「川に沿って行こうと来たのです」

 

これは嘘です。彼らは探検に乗り出し、彼らが“地理”調査隊と呼んだものを送り出しました。彼らはそうした調査隊に、いろいろな名前を付けました。これらの調査隊は偵察将校や情報将校からなっており、その目的はティンブクトゥを占領して、神の宗教が広がらないように、この灯火が放っている光を消すことでした。

彼らは啓典の民の一団でした。彼らは村に入って諸部族の名前を書き留め、族長たちと知り合いました。そして交易商にティンブクトゥへの道を地図に描いてもらい、武器を持たない民を見つけたのです。書物と知識とコーランしか持たない、善良な人々でした。

 

ヨーロッパで、彼らは計画を立て、チュニジア、セネガル、チャドと、あらゆる方向からティンブクトゥに迫りました。彼らはティンブクトゥを破壊して占拠し、報復を果たしました。書物を持ちだしてニジェール川に投げ込み、モスクを厩舎に変えて自分たちの馬を入れました。最後に彼らは、ニジェール川の水をティンブクトゥに引いていた運河を埋めたのです。リビアのあなたがたの兄弟たちは、川の水を再びティンクトゥに届けるために、運河を再び開通させると決めました。うまくいけば、植民地主義者たちが埋めた運河に再び水が流れ、ティンブクトゥまで届くでしょう。

 

これが、ティンブクトゥに対して企てられた歴史的な陰謀です。ティンブクトゥがまた別の、新たな陰謀に直面する可能性は非常に高いのですが、われわれは古い陰謀の要素を見直すことにしましょう。砂漠を再び占領するために、彼らは新たな探検隊を送りました。今度は“平和部隊”と呼ばれることもあります。これは、偵察将校や情報将校やその他の将校、国境なきジャーナリストとか国境なき医師団とかいう者たち、それに環境活動家からなる、新植民地主義者の集団です。彼らは使節団と呼んでいます。彼らはこうした集団に現代風の名前を付けて、大砂漠を再び占領しようとしています。しかし、ここティンブクトゥから、われわれは第2の課題を宣言します。第1の課題については、既に話しました。宗教の課題、カアバへの巡礼、カリキュラム変更の必要性です。今度は、第2の課題、植民地主義という国家的、社会的問題です。

 

われわれは彼らに、こう言います — 大砂漠を占領するつもりなら、あなたがたが足を踏み入れる前に警告しておく。砂漠の民はライオンや鷹のごとく勇猛で、砂漠の砂や石はときに熾火のごとく熱く、その空気はときに炎となって燃え上がる。

 

われわれは、あなたがたが砂漠で戦いを始める前に警告します。あなたがたが砂漠に基地を建設したら、それは砂漠の民に屈辱を与えることです。砂漠を植民地化するのは砂漠を悪用することです。あなたがたは砂漠の富を搾取したいのでしょうが、それは結局、砂漠の平和と安定を脅かすことになります。砂漠と、砂漠の住民であるわれわれは、ライオンや鷹と化し、熾火と化し、炎と化すでしょう。警告はしたので、覚悟してください。

 

われわれ砂漠の民は、全預言者の封印が生まれ、亡くなったこの偉大な日に、ここに集いました。われわれは、われわれに和平を求める者とは和解し、われわれと戦う者とは戦います。コーランは言っています。「彼らが和平に傾いたならば、あなたもそれに傾きなさい」彼らが平和を愛するなら、われわれは平和的な民です。彼らが先に手を出して攻撃し、われわれの独立を脅かし、われわれの砂漠を危険にさらすなら、われわれは巨大な力となり、モーリタニアやセネガルからイラクやシリア砂漠まで、砂漠を燃え上がらせるでしょう。われわれ大砂漠の民のアイデンティティはただ1つ、大砂漠に住む者だという1点です。われわれは、この砂漠で何万年も暮らしてきました。ここで自由に暮らしています。われわれは、セネガルやモーリタニアから肥沃な三日月地帯までのこの砂漠で自由に生きたいのです。

 

これはわれわれの土地であり、われわれは1つの家族です。それぞれ別の名を持つ、多くの個からなる家族なのです.

トゥアレグ族もいれば、バラべシュ族、セネガル族もいる。フラニ族、バンバラ族、テブ族、アリーの子孫たち、スーダンの諸部族、チャドの諸部族、ニジェール・東西ナイル砂漠・シナイ・ヨルダン・シリア砂漠・アラビア半島の諸部族、イラクや肥沃な三日月地帯の諸部族…。これらは皆、同じ家族のメンバーの名前で、この家族が大砂漠の住民です。われわれは互いに何かあれば駆けつけ、互いを守ります。決して互いを見捨てたり、互いに武器を向けたりはしません。

 

われわれは友情の手を差し伸べ、戦いになれば協力し、われわれの砂漠を築き、平和と安全と安定のうちに暮らします。これが砂漠の民という大家族です。われわれが武器を取る理由はただ1つ、外から侵略を受けたときです。われわれは砂漠のためなら命を捨てます。われわれが流す血が、その砂の中にしみ込むでしょう。それでもわれわれは、砂1粒たりとも手放す気はありません。

 

肥沃な三日月からセネガル川まで、砂漠の諸部族は同胞を殺す戦いはしません。われわれが互いに対して武器を向けることはありません。われわれは、1つの家族として暮らしています。われわれは砂漠を守ります。

 

いつの時代も、われわれの砂漠を欲しがる者たちは存在しました。われわれは1つにまとまって、大砂漠の諸部族のための一大連合を結成しなくてはいけません。憲章を作り、皆で署名して、“ティンブクトゥ憲章”と呼びましょう。大砂漠のあらゆる部族の王やスルタン、シャイフや長老が、われわれと並んで立っています。世界中のイスラム教国やイスラムの組織、政党、グループや機関の指導者もいます。アメリカのネーション・オブ・イスラムの指導者であるわれわれの兄弟ルイス・ファラカンも来ています。

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