Home 会議 全国人民司法委員会司法機関の長・職員 学士院会員、ファーテハ大学法科大学院 ザ・セブンス・オブ・エープリル大学(マルカブ) 高等研究学院、「緑の講堂」 卒業生・上級学位生に向けた 敬愛なる革命指導者の演説
会議 - 20 4月، 2024

全国人民司法委員会司法機関の長・職員 学士院会員、ファーテハ大学法科大学院 ザ・セブンス・オブ・エープリル大学(マルカブ) 高等研究学院、「緑の講堂」 卒業生・上級学位生に向けた 敬愛なる革命指導者の演説

ラマダン期間中にお集まりの皆様におかれましては、益々ご健勝のことと存じます。聖なる月にご挨拶申し上げるとともに、本日この場にお集まりいただいたことに感謝申し上げます。断食中の皆様を前に失礼いたします。

 

本日は、法律を専門とされる教授や学生の皆様に法的課題に関する私の考えを述べる機会をいただきました。我々はまもなく、修正条項案を盛り込んだ新たな刑法案を人民会議に提出します。我々が行うのはあくまで法案の提出であり、最終的な決断は人民会議において下されることとなります。

 

原則を導き出し、法律を策定する人民は、あらゆる原則・法律の上に立つものであります。

 

原則は法に優先されるべきだとの見方がある一方で、最終的な判断は法の下に下されるべきだとの見方もあります。しかし我々は、最終的な判断を下すのは人民であると考えます。人民はあらゆる原則・法律の上に立つものです。法律を策定するのは人民であり、状況や生活環境に応じて自らの選択で原則を導き出すのも人民であります。

 

法律を採択するのは人民会議であり、法律を採択する人民会議は法律の修正・廃止に関する特権的権限を有します。その意味で、法律を修正し、または廃止とするのは人民であるともいえます。最終的な意志決定を下すのは人民会議であり、我々が本日この場で述べる事柄が最終決定となっているわけではありません。それでも、課題を明らかにする上で我々に貢献の機会が与えられているのだとすれば、我々は最大限の貢献を果たす必要があると考えます。

 

世界では極刑廃止を求める声が強まっていますが、現実はそれとは逆方向に動いています。

 

既にご承知の通り、各国は極刑の廃止を宣言しています。

 

それは単なる口先だけのことであり、現実は世界がそれとは逆方向に歩を進めていることを示しています。

 

各国は、極刑制度を拡充しているにもかかわらず、極刑は廃止の方向へと向かっていると宣言しています。我々はこの事実を世界に示すべなのであります。いかなる政府・非政府組織をして我々の英知を侮辱せしめるようなことは断じてあってはなりません。仮に彼らが他の人々を侮辱したとして、彼らが我々を侮辱するようなことは許されません。世界の国々は極刑を廃止する、または極刑の廃止に取り組むと宣言しますが、実際に行われているのは極刑制度の拡充です。さらに危険なこととして、世界の国々は死刑を司法の枠外で集合的に執行しているのです。これはまさに危険なことであります。

 

驚くべき事に、死刑が司法の枠外で集合的に執行されているのであります。

 

従って、法廷での極刑求刑などは愚直なことで、とりわけ、極刑が司法の枠外で集合的に執行されるという文脈においては、何ら道義的力を有するものではないです。

 

さらに、極刑を廃止した、あるいは極刑の廃止を求める国々と全く同じ国々で死刑は大規模に執行されています。

 

法廷で言い渡された死刑判決の廃止を求める国家と全く同じ国家が司法の枠外で集合的かつ大規模に極刑を執行しているのです。

 

こうしたことから、法廷での極刑宣告を廃止しない国家に対する国際機関や諸国家の主張は根拠に欠けるものであるといえるのです。超大国や極刑廃止を宣言した国々は、現在も死刑を司法の枠外で集合的に執行しています。そうした国家が極刑を廃止していない他の国家に極刑廃止を求め、司法の枠外での死刑の執行停止を求めています。こうした状況にある限り、法廷の場で言い渡された死刑宣告には、然るべき手続きを経ず、法的保証もないまま集合的に執行される死刑に比べ、より大きな合法性・正当性・人道性を有するということができるのです。

 

イスラエルは極刑を廃止したといいます。誰がそれを信じるでしょうか。極刑を廃止したといいながら大量虐殺をすることなどできうるのでしょうか。パレスチナ人を逮捕しイスラエルの法廷にかけ、彼らに法廷弁護士を付けるのなら、事はさらに容易に運びます。

 

米国は私に死刑を宣告し、爆撃という形で宣告を実行に移しました。それでも、私は命を失うことはありませんでした。私が命を失うことがなかった理由について、米国がその影響力を行使することはできないです。

 

米国は死刑反対国です。一部の州では実際に極刑が廃止されたのかもしれませんが、すべての州で死刑が廃止されたわけではありません。それでも、米国は現在も集合的な死刑を執行しています。事実、米国は私に死刑を言い渡しました。爆撃により私の命を奪うと宣告したのです。それでも、私は命を失うことはありませんでした。その理由について、米国が影響力を行使することはできないのです。二者択一をするとして、どちらがより優れているのでしょうか。法廷弁護士が付き上訴する権利が認められた状態で裁判にかけられることでしょうか。それとも、法的保証のない状態で死刑宣告を受けることでしょうか。どちらが優れているのでしょうか。

 

我々は自らの立場を明かにし、明らかにした立場を学校教育や国際場裏での主張に反映させる必要があります。リビアに対する世界の注目は高まっています。リビアを恐れる国もあれば、我が国との関係樹立を求める国もあります。リビアへの投資に関心を持つ人もいれば、リビアに観光にやってくる人もいます。石油・ガス田で働くためにやってくる人もいれば、リビアで何かをしたいと考えやってくる人もいます。かつてバルセロナプロセスとして知られた「欧州・地中海パートナーシップ」もあります。リビアは世界の注目の的となっています。リビアは自らの意見を発信し、国際場裏で我が国が進むべき道を描く必要があります。トルコは欧州連合(EU)に加盟するという野心を抱いていますが、リビアが第2のトルコとなるようなことがあってはなりません。トルコの政治・司法・社会の各分野での特異性を考え、欧州の基準に沿うとすれば、トルコにはEU加盟の資格はありません。トルコが取る行動の予見可能性は低く、トルコの行動は現実的なものでもありません。結果、愚かな、あるいは恥ずべきともいうべき状況が生まれるのです。トルコといえば、容認できない深刻な犯罪の問題もあります。そうした罪が処罰を免れるということは、いかなる選択肢を構成するものでもありません。

 

彼ら、すなわち欧州各国はこうした考えを重視しようとはしません。「そうした犯罪行為に対する罰は廃止すべきだ」と彼らは訴えるのです。このアプローチはトルコ社会の壊滅を招くため、受け入れることはできません。トルコ社会は一定の価値観の下に成り立っています。そうした社会的・政治的・司法的価値観が侵害されるとき、社会は崩壊を迎えます。リビアが第2のトルコとなるようなことがあってはなりません。リビアが時代の中心に位置する中にあって、我が国はトルコのようになるべきではないです。我々を中傷する者を黙らせるには、揺るぎない論に支えられる必要があります。本日この場で法律を専門とする教授、学生、判事の皆様にお会いしたいと考えたのも、まさにそのためなのであります。この問題に光を当てることは重要なことです。

 

現代の世界には「公式」と「非公式」の二種類の機関が存在します。我々は強力な勢力による攻撃を懸念します。

 

現代の世界には「公式」と「非公式」の二種類の機関が存在します。公式な機関とは政府や主要国のほか、国際機関が構成するものであり、公式な機関の利害関係者や、軍事力・経済力に加え国連安全保障理事会においては拒否権を持つ常任理事国は、公式な機関に影響力を行使することができます。

 

もう1つの機関、すなわち非公式な機関を支えるのは、集団・個人を構成員とする非政府組織です。非公式な機関は国家とは関係を持ちません。

 

現代の世界の成り立ちを見ると、世界には2つの機関、すなわち「公式」な機関と、「非公式」な機関が存在することが理解できます。これらの機関にはいずれにも極刑の廃止を求める可能性がありますが、動機はそれぞれに異なります。公式な機関にはアジェンダが用意されている一方で、非公式な機関は人道的活動を行う機関です。彼らはこの種の刑の廃止を求めるのかもしれませんが、それは、情報操作の犠牲になったり、何らかの支配下に置かれたり、誰かに利用されたりしていない限りにおいて、純粋に人道的観点からの要請なのであります。

 

市民社会で活動するそうした機関に国家が忍び込み、同機関を操作する可能性が米国、英国、イスラエル等の主要国には存在します。これら集団、すなわち民間の非政府組織を非公式な機関に分類する点で我々は正しい判断を下しています。我々は、極刑廃止を世界で求める彼らの声は純粋に人道的配慮に基づき発せられるものであると考えます。彼らにはアジェンダもなければ、追求すべき政治的・経済的利益もありません。彼らは「善良なサマリア人」であり、極刑から自らを、子孫を、そして人類全体を救いたいと考える、思慮深く親切心に富んだ、一般の人々なのです。彼らがこの種の刑の廃止を求め、また同刑の廃止のために国に圧力をかけるための機関を設立するのも、そうした動機に基づきます。

 

世界の諜報機関は同機関の下で活動する諜報員の保護を目的に極刑廃止に向けた取り組みを推進しています。

 

公式な機関も同様の事柄を主張します。彼らは極刑の廃止を求める一方で、非政府組織を利用し、自らに向けられる筈の注意をそらせようとしています。彼らが極刑廃止を求めるのには別の目的があります。主要国に代表される公式な機関は極刑の廃止を目指しますが、彼らにはアジェンダがあります。人道的活動を行う機関とは違い、公式な機関が極刑の廃止を求めるのは、それが善い行いと考えているからではなく、それが自らに益する活動だと考えているからなのです。彼らが追求するのは自己の利益です。一部の国家は諜報員をリビア、エジプト、イラン、またはインドに送りこんでいますが、これら諜報員はリビア人、エジプト人、イラン人、またはインド人、あるいは別の国の国籍を有する人物である可能性もあるのです。こうした国家は自国の諜報員を処刑から保護したいと考えます。死刑が廃止された国に諜報員を送り込みたいと考えるのです。そうすれば、諜報員の諜報活動が円滑に進む場合があるからです。諜報員を送り込む国は諜報員の身の安全を懸念します。その意味で、諜報員が活動する国での死刑廃止は、諜報活動との間で利害関係を有するのです。諜報員自身にしてみてみても、死刑制度のある国での活動には恐怖心が生まれます。死刑制度を有する国と極刑を執行しない国とでは、諜報員を取り巻く状況も異なります。スパイや裏切り者は、自らの身元が割れた暁、死に直面しなければならないことを知るようになります。極刑廃止を求める国は極刑制度を持つ国の国民や国家の福祉に関心を有しているのではありません。むしろ、彼らが極刑廃止を求めるのは、自らの諜報員のためなのであります。

 

外国の諜報員の身の安全を守るために極刑廃止が求められる場合もあります。

 

これまでお話したのは安全保障や諜報活動のレベルでのシナリオでした。より小規模なレベルでのシナリオもあります。自分たちの代わりに活動する「操り人形」を別の国に送り込む国も世界には存在します。彼らは、そうした「操り人形」や裏切り者が死刑に処されることがないようにするため、死刑の廃止を求めます。引き続き自国に情報が提供され続けるようにするため、「操り人形」の活動が阻害される状況は回避したいと考えるのです。

 

死刑の廃止を法の名の下で求めておきながら偽善的になることなど、どうしてできるのでしょうか。

 

各国の政府、公的機関、諜報機関、外交機関が、第三世界に現在も存続する極刑の廃止を求めるのは自国の諜報員を守るためです。彼らは、自国の諜報員が死刑に処されることなく当該国で活動を継続できる状況を保証したいのです。死刑の廃止は諜報員の活動をより円滑にするからです。諜報員は自分たちの首が切られることはないことを知りながら任務を遂行します。投獄といった死刑以外の刑なら、彼らが怯むこともありません。我々は極刑廃止を求める声にだまされるようなことはありません。我々は愚鈍な者でも幼児でもありません。彼らをして我々を嘲笑せしめることはありえないことなのであります。

 

法制度の下に死刑を宣告することと、ロケット弾の発射や爆撃、飢餓、テロ行為により集合的に死刑を宣告することの違いは何でしょうか。

 

我々は司法の枠外で執行される死刑の廃止を求めます。

 

我々は極刑の廃止を求めます。しかしながら、その際には極刑が何を指すのか、言葉の定義を明確にしなければなりません。第1に、我々は、爆弾、ロケット弾、飢餓により、司法の枠外で無差別に執行される死刑の廃止を求めます。1から10までの10の数があるとして、1だけを取り上げ、7、8、あるいは3は別と主張することはできません。1から10のすべてが死刑であるとして、7だけは例外に残りは廃止するなどといかにいえましょうか。すべての判決は死刑宣告であり、それらはすべて廃止されなければなりません。それらは爆弾、ロケット弾、航空爆撃、飢餓、テロ行為、疫病により行使される死刑宣告なのであります。種々の要素を分析した結果、最終的には法廷の場で言い渡された判決の方がより優れていると結論づけることができます。法廷での判決は、我々が熟睡している間に仕掛けられる空襲といった奇襲攻撃でもなければ、大陸間ミサイルによる奇襲攻撃でもありません。法廷の場で言い渡される死刑の方が究極的には優れているといえるのです。死刑を司法の枠外で無差別に執行する国家には有罪が、法廷という場で極刑を言い渡す国家には無罪が、それぞれに言い渡されることになるでしょう。これは我が国が国連、国連機構、人権団体、アムネスティインターナショナルに対し行うべき主張であり、擁護に値する論なのであります。我々は死刑の執行に異を唱えます。死刑は、それがレーザー誘導爆弾によるものであろうと、巡航ミサイル、銃殺隊、縄、電気椅子、毒ガス、または致死注射によるものであろうと、死刑であることに変わりはありません。これらはいずれも死刑です。身の安全を確保し、弁護士を付けた上で被告人に出廷を求め、被告人に起訴内容を聞かせた上で抗弁の機会を与え、上訴や判決言い渡し後の減刑の機会を保証する方がより優れているのではないでしょうか。判決を言い渡したり、死刑宣告に署名をしたりするのは通常知事という立場にある人物です。リビアの場合は最高司法協議会がこの任に当たります。最高司法協議会は死刑を懲役刑にまで減刑させる権限を有します。新規証拠物件を提示することも、有罪人が無罪となることも可能なのです。

 

このような状況にあって、皆様はどちらがより優れているとお考えでしょうか。今私がお話申し上げたシナリオでしょうか。空襲、戦車砲撃、大陸間ミサイルにより、あるいは被告側弁護士を付ける権利を剥奪された状態で、突然死刑を執行されるシナリオでしょうか。巡航ミサイルが襲ってくるとき、誰があなたの被告弁護人などになってくれましょうか。巡航ミサイルに立ち向かうにはパトリオットミサイルが必要になるかもしれません。

 

しかしあなたの手元にパトリオットミサイルがあるとは限りません。すべての国家、家計・家庭がパトリオットミサイルや対ミサイル防御装置を保有することなど不可能ですし、すべての路上にそうしたミサイルや装置を配備することも不可能です。そうした状況では我々は自分たちの身を守る手段を持ち合わせていないことになります。対ミサイル防御装置を持たない限り、被告側弁護士を付けることもできません。あなたは無差別に死刑判決を言い渡す大法廷に立たされたも同然なのです。

 

ここでの被害者には弁護士も付かず、核爆撃や大陸間ミサイル、クラスター爆弾や焼夷弾(ナパーム)から自らの身を守る術もないのです。化学兵器や細菌兵器への対抗措置も、マスクも、防具も、シェルターもありません。

 

死刑執行手段のハイテク化が進んでいます。彼らは、防壁を貫き目標物を打ち落とす爆弾やミサイルを開発しました。有名で有能な弁護士を引き連れて通常の法廷に出廷する状況がある一方で、こうした弁護士を付けることができない状況もあるのです。シェルターに逃げ込んだとしても、彼らはシェルターの中にまで追ってくる爆弾を開発したのです。

 

彼らはあなたから自衛の手段を奪い取ります。これは最悪の法廷です。自らを守る術も、上訴する機会も、潔白証明の希望もないまま死刑が言い渡される最悪の法廷です。そして死刑は司法の枠外で執行されるのです。

 

現在も世界中の法廷で言い渡されている死刑に対する、強力な勢力の大きな声が共鳴し始めています。世界の半数の国々は死刑制度を有しています。残り半数、あるいはそれ以下の数の国々は死刑を廃止しました。極刑廃止を求める運動は米国同時多発テロ事件を契機に弱まることになりました。

 

そうした運動は大きく弱まり、拷問、暴力、蛮行が容認されるようになりました。米国は敵に対する死刑を宣言し、秘密裏の手段を含むあらゆる手段を用い死刑を執行するとしています。そうした手段の秘密は王国が到来するまで保たれることもあります。これは米国の大統領自身が述べていることでもあります。死刑とは一体何でしょうか。死刑の目的は何でしょうか。社会が犯罪者に対し死刑を言い渡すのは、社会の敵である犯罪者を社会から取り除くためです。

 

社会を破壊する犯罪者は社会にとっての脅威です。従って、社会はそうした個人に対し法廷で死刑を言い渡します。ビン・ラディンを例に考えてみましょう。ビン・ラディンは米国の敵です。米国はビン・ラディンの所在が明らかになった時点で彼を刑に処すと宣言しています。ザルカーウィについても同様に、居場所が突き止められた時点で米国は彼を刑に処すつもりです。これこそが米国の主張ではないでしょうか。米国はなぜそのような主張をするのでしょうか。なぜなら、米国は彼らを敵とみなしているからです。敵は殺す。では、敵が社会の福祉に危害を加える状況にあるとして、社会の敵である者の命を社会が奪うことがあってはならないなど、どうして米国は主張できるのでしょうか。我々はどのような行動を取るべきなのでしょうか。我々は、人の命を奪うことは容認できない、法的手段によるものであれ、ジェット機、戦艦、巡航ミサイル、飢餓、暗殺によるものであれ、いかなる手段によっても流血の事態を引き起こすことはあってはならないとの見解に対し、国連その他の国際的な場で賛意を表明する必要があるのです。

 

イスラエルは法の下での死刑を廃止しました。それでも彼らはパキスタン人に対しては死刑を執行し続けています。それも、司法の枠外で、日常的にかつ大規模に、です。それではイスラエルの法の下で死刑を廃止して何の意味があるのでしょうか。まさに見え透いた真似事でしかありません。しかし誰もそれが真似事であることに気づいていないです。パレスチナ人の命は、日常的に、意図的に、計画的に奪われているのではないでしょうか。彼らはパレスチナ人の後をつけ、アパッチヘリコプターに信号を送信する自動誘導装置をパレスチナ人の車や自宅に仕掛け、パレスチナ人を上空から攻撃しているのです。これはまさしく、司法の枠外、法廷の外で執行される銃殺隊による意図的な死刑と同じではないでしょうか。

 

法廷の外で、然るべき手続きを経ることもなく、イラク人やパレスチナ人に行われる処刑を世界は目の当たりにしています。

 

人の命を尊重することの重要性は世界のどの国であろうと変わることはありません。

 

我々はこじつけに屈することはありません。人の尊い命は世界のどこであろうと尊重されるべきものであり、決して無駄に扱われるようなことがあってはなりません。彼らは戦争、侵略、植民地主義に終止符を打たなければなりません。我々とて同様です。これは法廷で宣告される死刑の廃止だけにあてはまることではなく、個人や人民に対するあらゆる形態での死刑の廃止にあてはまることなのであります。法が支配する法廷で1人の人間に対する死刑が言い渡される一方で、1つの国の国民全体に対する死刑が法廷の外で言い渡される。イラク人やパレスチナ人に対しては、裁判をすることも、然るべき手続きを経ることないまま、司法の枠外で死刑宣告が下されているのです。

 

死刑の廃止に真剣に取り組むのなら、いかなる場所にあっても、侵略、侵攻、戦争を終結させることで流血の事態に終止符を打つ必要があります。

 

私は、集合的に執行される死刑の廃止には、個人に対し宣告される死刑の廃止よりも大きな意義があると考えます。法廷の外で執行される死刑の廃止と、法の下で執行される死刑の廃止とでは、前者の方がより重要となります。もちろん、これは死刑制度の支持を意味するものではありません。むしろ我々の主張はそれとは逆で、我々が廃止を求めるのは大規模かつ無制限に執行される死刑のみなのであります。

 

法の下で執行される死刑を廃止しては死刑の目的が無意味なものとなってしまいます。彼らは法の下で執行される死刑は廃止しましたが、我々に対する法廷の外での攻撃は止むことがなく、我々の命は無差別に奪われ続けています。公共広場や路上で我々が死刑に処されるようなことがあってはなりません。我々は、法の下で執行されるものであれ、司法の枠外で執行されるものであれ、真の意味での死刑の廃止を心から願っています。しかしここではより重要な事柄から取り組みに着手しようではありませんか。法廷の外で執行される死刑、無差別かつ大規模に執行される死刑、そして、またの名を「軍隊」とする銃殺隊が国民に執行する死刑に終止符を打とうではありませんか。私は真剣にこう訴えます――死刑廃止は文明人の行為である、と。トルコのように外圧の結果死刑を廃止するようなことがあってはなりません。EU加盟を前にトルコは大きな圧力を受けています。「欧州・地中海パートナーシップ」へとつながるプロセスにおいて彼らが我々への圧力を強める可能性も考えられます。第三世界の国々は、西側社会とのパートナーシップを結ぶよう圧力を受けることがあるのです。

 

事実、死刑廃止を求める立場は、国際関係を築く上での交渉切り札となっています。

 

教養ある文明人であることと、死刑廃止を求めることの間には、必ずしも関係が成立するわけではありません。

 

ある後進国は、他の国の機嫌をとったり、何らかの見返りを得たりすることを目的に死刑の廃止を決定しました。しかし驚くべきことに、この国は、法廷の外で、法律弁護士を認めることもなく、非伝統的手段を用い、死刑を強要し、反対者を一掃しているのであります。結果は惨憺たるものです。

 

この国は、教養ある洗練された文化的国だから死刑を廃止したのではありません。高度な文明社会を有し人の命を奪うことなど到底理解できないから死刑を廃止したのでもありません。断じてそのようなことはありません。この国はそのレベルにまではまだ到達していない、極めて後進的な国なのであります。

 

人々が互いの命を奪い合う。これは極めて日常的に行われていることです。欧州共同市場や「欧州・地中海パートナーシップ」に参加するため、EUや国連といった組織・機構に加盟するため、あるいは、支援を取り付けたり、自国に対する敵対的行為を回避したりするため、ある国は儀礼的に「我が国は死刑を廃止した」と宣言するかもしれません。しかしだからといってその国が洗練された国であるわけではありません。死刑を廃止した国とはすなわち、人の命がナイフや銃で奪われることが全くない国です。法の下での死刑を廃止しておきながら、銃やナイフ、こん棒で他の人の命が奪われる、あるいは自動車事故で人の命が奪われるような状況が放置されることなどありえるのでしょうか。車は速度を上げれば人の命を奪いかねません。あなたが文明人であれば車の速度を上げることなどしないでしょう。なぜなら、速度を上げれば、他の車に乗っている人や歩行者の命を奪いかねないからです。あなたが犠牲者となる可能性もあります。死んでしまえば自殺をしたも同然です。

 

法の下での死刑執行を廃止しておきながら、法廷の外での死刑が効力を有し続けることなど、一体どのようにしてありえるのでしょうか。

 

洗練された考えを持ち、十分に注意深い人物であれば、速度を上げればどういった結末が待ち受けているかを理解しているので、適度な速度で車を運転することでしょう。この人物はナイフで仲間を殺したり、ショットガンで自衛を図ったりするような愚か者ではありません。なぜでしょうか。なぜなら、相手も洗練された考えを持つ文明人であり、そうした人物はナイフやショットガンに依拠することはないからです。死刑の廃止はそうした状況にあってはじめて高次の次元の要請、代償の結果となり、脅迫や貪欲、欺きや偽善の結果となることを免れるのです。

 

私は一貫して死刑の廃止を求めてきました。バーレーンは死刑を廃止しました。同国はアラブで死刑を廃止した唯一の国です。さて、我々は、バーレーンが死刑をもはや必要としないほど洗練され進歩した国になったなどと信じることができるでしょうか。そのようなことは断じてありません。バーレーンは現在もリビアやモロッコと変わりありません。

 

我々は同じ精神性を持つものです。彼らはいつの間にこの精神性に到達したのでしょうか。我が国は明日にでも死刑を廃止するかもしれません。私はこれまで一度ならず個人の立場から死刑の廃止を人民会議に求めてきました。

 

私が行ったこの提案は人民会議の承認をまだ受けていません。まだ確信が持てないというのがその理由です。路上で刺されて命を失う可能性がある中で確信などいかにできましょうか。ある人物が、私の命を奪えばその結果自分が死刑に処されることを理解しているのなら、その人物は私の命を奪うという考えを断念するかもしれません。これは抑止効果です。

 

私の立場と人民会議の立場はある意味で一致しています。リビアの人民は慎重な立場を維持し、死刑の廃止を拒否しました。一方ムアマルは、死刑の廃止を主張します。彼はリビアが文明国であると信じたいのかもしれません。欧州、米国、国連、アジア、アフリカ等に対し、リビアは文明国として死刑を廃止したと声高に宣言したいのかもしれません。

 

ムアマルはこう考えます。一方で我々は現実的に考え、死刑は廃止しない、と。私は彼らが人民会議でそういうのを聞きました。彼らはセミナーを開き、この問題を論じました。私は人民が「ノー」といったのは良いことだと思います。彼らは「死刑制度の導入は容易に実現したとでもいうのか」と問いかけました。我々の社会は死刑を廃止できる段階にまでは到達していませんでした。死刑を司法の枠外で無差別に執行する国は死刑を廃止すべきです。死刑の廃止を求めることは、武器の製造・輸出を停止させることと同義です。それがリビアの人民の主張です。我々は繰り返し死刑の廃止を求めてきました。しかし、リビアの人民は廃止を拒否しました。廃止を正当化できる段階にまでは到達していないと信じたからです。

 

世界では原子爆弾、空母、化学兵器、大砲、戦車、炭疽等の細菌といった殺傷手段の製造が続けられるなど、多くの国・地域で野蛮な状態が続いています。そうした殺傷手段を製造しておきながら死刑の廃止を求めているのです。ナイフを毎日製造し研ぐのは、それを使って人の命を奪うためです。

 

そうした人々にいかに死刑の廃止など求められましょう。ナイフは破棄されるべきです。ナイフの製造は停止されるべきです。あらゆる兵器備蓄は一掃されるべきです。リビアは米国を攻撃しない、米国もリビアを攻撃しない、イラクはクウェートを攻撃しない、クウェートもイラクを攻撃しない、パキスタンはインドを攻撃しない、インドもパキスタンを攻撃しない、インドは中国を攻撃しない、等々の事柄に我々が確信を持ったとき、その段階に到達したとき、世界と我々はより高次の進展を遂げるようになり、我々の確信は完全なものとなるのです。

 

人の命は等しく貴重であり、尊重されるべきものであります。

 

我々がアフリカは1つの軍隊のみを有すべきであると主張するとき――そしてこれは実際に我々がアフリカ連合に対し行った提案でもあります――そして、アフリカ諸国が個別に有する軍隊は解体すべきであると主張するとき、一部の国はこのように主張するかもしれません。「我が国の軍隊を解体することなどいかにできようか。近隣国が我が国に対し攻撃を仕掛けてくる可能性はないのか」と。これに対し私は「貴国の近隣国は軍隊を有さない。我々は貴国の近隣国に対しても軍隊の解体を要請した。貴国を侵攻する軍隊を近隣国が持たないのであれば、貴国を攻撃する軍隊は存在しない。この限りにおいて貴国を不安に陥れる材料はない。状況はどの国においても同じだ。仮に外国からの攻撃の犠牲となるような場合はアフリカ軍が貴国の防衛にあたる」と答えます。我々が互いを信頼し、あなたが私を刑に処さないこと、私に宣告された死刑を廃止することを決断し、私も同様の決断を下した日に、物事はあるべきところに落ち着くことになります。

 

これにより決着がつき、そうして極刑の廃止が可能となるのです。言い換えればこうなります。我々はリビアの法科大学院の教育課程に含めるべきであり、死刑を強要する上で選択的になることなどできない旨、宣言すべきなのであります。人の命を奪ったり、流血の事態を引き起こしたりすることの意味はどこにいようと変わりありません。人の命は等しく貴重で、等しく尊重されなければなりません。リビア人は米国人と何ら変わることはありません。イラン人、インド人、パキスタン人、中国人、英国人、ドイツ人とも同じです。人の命は重んじられ、尊重されるべきものなのです。処刑の手段には爆弾やミサイル、縄や銃弾、電気ショックや毒ガスなど様々に異なるものがありますが、そうした手段により刑が執行されるようなことはあってはなりません。我々は死刑、そして死刑を執行する手段の廃止で合意に到達する必要があります。こうした取り組みは、神学的あるいは宗教的次元とは無関係な、世俗的、市民的、社会的なアプローチを追及するものです。そこに神学的要素を持ち込むのなら、新たな論争に火種をつけることで終わってしまいます。

 

これまで宗教、法律学、哲学は極刑問題や、殺人に対する報復に関する法にどのように対応してきたでしょうか。

 

イスラム教徒ならこう主張するでしょう。「殺人者の命は奪われなければならないというのが宗教の教えだ。神は報復を命じておられる。盗人を鞭打ち、盗人の手は切り落とせというのが神の教えだ。神の教えにどうして逆らえようか。最後の審判の日に誰が神の前で私を擁護してくれようか。『神よ、あなたの教え(シャリア)に背いたからといって彼を裁いてはならない。なぜなら私があなたの教えに背くよう彼に命じたからだ』などと誰がいってくれようか」

 

仮に彼らが、我々に命じたのは自分たちであるという事実を根拠に、最後の審判の日に我々が神の前で不利な裁きを受けないことを保証し、その上で、我々が彼らの命令に従い神の教えに背くのであれば、それはまた別の話になるのかもしれませんが、それはありえない話です。彼らはそのようなことをすることはできませんし、そのような保証をすることもできません。神力のしるしが現れ、神があなたに対し「汝が信じる者か」と語りかけたとき、あなたならどうするでしょうか。我々は神の言葉に注意深く耳を傾けなければなりません。「人民よ」、「市民よ」と神があなたに対し語りかけているのです。我々は神に語りかけられる者となるのです。「汝、信仰を抱く者よ、殺人に対する義なる報復を実行する運命を汝に授ける」と神は語ります。我々は耳を傾けます。神は我々に何を求めているのでしょうか。「汝、信仰を抱く者よ」と神は語ります。「主よ、我々はここにおります。我々はあなたの教えに従います」

 

神は「義なる報復が汝の運命」、「自由には自由を、隷属には隷属を、女には女を」と語ります。それに対し我々はどう答えるのでしょうか。これは運命であり、我々には他の選択肢はありません。封印された運命なのであります。「断食せよ」との教えであれば、それは断食以外の何をも意味するものではなく、従って、我々は「神の御前に集う者に与えられた教え」として断食をするのです。我々は断食をします。それが我々に与えられた教えだからです。

 

我々は神の教えに解釈を加えるでしょうか。「いや、我々は断食は行わない」などということがあるのでしょうか。「信じる者は定められたときに祈りを捧げる」との教えであれば、それはそれ以外の何をも意味するもののではありません。祈りは定められたときに捧げられなければならないのです。我々が国連、アムネスティインターナショナル、人権団体、哲学者や知識人の考えに背を向け新たな世界を切り開いたのはこのためです。我々が宗教を支えとするのはなぜでしょうか。我々は神に助言を求め、その結果、他の命令に従うことが神の教えであることを学んだのです。

 

報復に関しては、「自由に対しては自由を」とあります。「義なる報復の法の下で洞察力を与えられた汝に命を与える」とあるからです。「不当に命を奪われた者に対しては、その者の後継者に報復または謝罪を求める権限を与えることとする。ただし、命を奪うことに関しては境界を越えるようなことがあってはならない。法による助けがあるからである」

 

従って、殺人に対する報復を求めることはできますが、命を奪うことに関しては境界を越えるようなことはあってはなりません。不当に命を奪われた者に対しては、彼を擁護するための権限を付与された者が殺人者の命を奪うことを要求します。彼の弁護士は境界を越えることはできません。従って、殺人者の母方または父方のいとこの命が報復として奪われるようなことがあってはならないのです。「正当な理由なくして命を奪ってはならない。アラーは命を神聖なものとされたのである」。神は命を神聖なものとされ、命を奪うという行為を禁じておられます。そこで、先の提案に話を戻したいと思います。我々は命は貴重で神聖なものであると述べました。神がそれを神聖なものとされたのであり、命が奪われるようなことはあってはなりません。あなたが信じる神が殺人を認めているなどという人はいません。我々は流血に関与しています。「人を殺し、流血させる者をそこに挙げてみよ」。これに対し、天使たちはこういいます。「主よ、殺人を犯す人間、アダムをあなたは創造なさいました」

 

「神は答えた。『確かに、我は汝らの知ることのないことを知るもの』」。神の知識は人知を超えるものであります。我々は流血に関与する者でありますが、神が人間を創造なさなったのには理由があります。神は人の命を奪うことを禁じておられます。彼らはこのように答えるのかもしれません。「あなた方の信じる神は死刑に加え流血の事態をも好むのだ」と。そのようなことは断じてありません。「正当な理由なくして命を奪ってはならない。アラーは命を神聖なものとされたのである」。従って、命を奪ってはならないという禁止命令に対する唯一の例外は、命が正当な理由をもって奪われたときのみなのです。そこに正当な理由があるとき、人は命を奪うことができます。コーランの別の句も、一定の例外的状況があることを示した上で、人の命の神聖さを強調しています。神は命を奪うことが許される状況を示していますが、不正や侵攻、植民地化や独裁主義、抑圧や損傷行為により命が奪われることを容認しておられるのではありません。これは独裁主義です。

 

あなた方は刑法案を人民会議に提出しようとしています。私はこの刑法案は人民会議に提出する前に時間をかけて慎重に検証されるべきだと考えています。刑法案の承認を急ぐべきではありません。むしろ、刑法案は徹底的かつ包括的に議論されるべきなのであります。

 

同法では、「ハラバ」としても知られる、社会に対する罪が規定されています。社会に対する罪には死刑が認められています。ハラバはテロ行為と同義です。この法律はテロ行為にも適用されます。ハラバとは神の言葉ではなく、法学者が生み出した言葉です。法学者は次の句を参考にしたのかもしれません。「アラーおよびアラーの使者に戦いを挑む者に対する罰、国土を通して殺人に全力を挙げることの罰、これすなわち、死刑、はりつけの刑、逆側からの四肢切断、または流刑である」。この句はテロ法の根拠として挙げることができます。あなたはハラバは反テロ行為だというかもしれません。しかし反テロ行為はハラバというべきではありません。なぜならハラバは神の言葉ではないからです。神は「アラーに戦いを挑む者に対する罰」を語っておられるのです。

 

法学者は「神と神の使者に挑む戦い」を意味する「ユハリボウン(yuhariboun)」というアラビア語からハラバという言葉を作り出しました。この考えの下で処罰が認められている行為には、山賊行為や、路上や家の中など場所を問わず人々の身の安全を脅し人々を恐怖に陥れる行為などが含まれます。それはまさしくテロ行為です。彼らはテロ掃討との名目で人民を全滅させるのであります。その結果はどのようなものでありましょう。それは、法廷の場でテロリズムと戦い死刑宣告を下すことに対し「テロリストに死刑を執行すべきではない」と主張する状況なのであります。

 

ラジャブ・アボウダボウス博士のような人物は、我々が神学的観点から物事を論じるやいなや、全く異なる観点を提示するのかもしれません。その結果については我々の知るところではありません。それは正しいことかもしれませんし、間違ったことなのかもしれません。あなたはアボウダボウス博士のように「アラーおよびアラーの使者に戦いを挑む者に対する罰、国土を通して殺人に全力を挙げることの罰」は特定の状況下でその姿を明かにすると主張するのかもしれません。彼は我々を「スラー」が明らかとなった歴史的文脈へと結びつけます。

 

「『炎の父』の手に落ちた者の運は尽きた。彼こそが運の尽きた者。彼が手にした富、彼が手にしたものすべてはどうなるのか」。これは我々が畏敬と尊敬の念をもって引用する句です。

 

しかし彼らは「炎の父」であるアブ・ラハブと彼の妻のことを懸念します。彼らはかつてモハマドが頻繁に使っていた道のたきぎに火を付けました。神は彼らに対し「最後の審判の日におまえたちは激しく燃える火の中に投げ込まれるであろう」といわれました。アブ・ラハブと彼の妻に関する話はここで終わります。神はある事件に関してこのようにお答えになりました。「アラーは汝に自らの夫に関する懇願をし、自らが抱える問題をアラーに述べた女の話を確かに聞いている」

 

これは夫との間に問題を抱えるある女性の話です。神はこのコーランの句の中で解決策をお示しになっています。アイシャは被告人となりましたが、神が彼女を自由の身にされました。神はこの句をお示しになり、彼女は無罪で、彼女を訴えたメディナの者達が偽り者であったことを明らかにされたのです。神は不当に罪を問われた女を解放なさったのです。

 

マホメットの妻についても同様にです。ある人々はマホメットの下に行き、貧しい中で自らが抱える問題を彼に打ち明けました。モハメットは彼らにラクダと案内人を与え、彼らが行くべき場所を示しました。これはこの物語のある解釈です。別の解釈によれば、 ある人々はマホメットの下に行き、イスラム教に改宗し、メディナで病気にかかりました。メディナには多くの沼地があるからです。

 

彼らはマホメットに不平をいいました。「砂漠にラクダがいるのでそこに行けばよい。ラクダの尿と乳を治療薬にすれば、病気はよくなるだろう」と。彼らはその指示に従ったようです。しかし最終的には案内人を殺害し、ラクダを盗み、イスラムの信仰を捨てました。物語の語り手によると、モハメットは彼らを逮捕し、呼び戻すよう命じ、実際、彼らは逮捕され、呼び戻されることになりました。彼らの四肢は逆側から切断され、彼らははりつけの刑に処され、屍体は切り刻まれることになりました。別の解釈もあります。彼らの目はくりぬかれ、悔い改めの機会が与えられることはなかった、というものです。神は我々に許しを与えられます。刑は処されました。問題は、モハメットが命令を発したのは事実が明らかになった後だったのか、という点です。彼は、彼が示した好意にもかかわらず裏切り者となった人々にどんな罰を加えるべきかを考えたのでしょうか。 彼らは病にかかっていました。彼らはイスラム教に改宗しました。彼は彼らをラクダ飼いのところに送りました。

 

彼らはラクダ飼いを殺害しラクダを盗みました。神が処罰の実施をマホメットに命じたか、マホメットが即時に下した決断を神が承認されたかのいずれかです。この問題を論じるとき、アボウダボウス博士はこれはある集団が過去に経験した事柄であり、現代に生きる我々とは無関係であると主張するでしょう。

 

アボウダボウス博士は事実が明るみになった文脈へとあなたを結びつけるでしょう。哲学を教えるアボウダボウス博士は哲学の観点からこの物語を解釈します。博士は「この句は、極悪な行為を行い、処罰されたある集団が故に明らかになった」というでしょう。

 

だからといって、極悪な行為が行われるたびに人々の四肢が切断されてよいわけではありません。これは全般的に適用できる論です。泥棒が盗みをはたらいたとします。当時の罰は、この泥棒――男性であれ、女性であれ――の四肢を切断することでした。問題は、我々は引き続き泥棒の四肢を切断し続けるべきだろうか、という点にあります。むしろこの罰は当時の人々にのみ、かつ、特定の状況下でのみ、課されるべきなのではないでしょうか。人々はいつだって盗みをするものです。では、彼らの腕をそぎ落とすべきなのでしょうか。

 

イエスは「罪を犯した事のない者は石を投じてみよ」といいました。人生で一度も盗みを犯したことのない者など、実際に存在するのでしょうか。すべての人は何らかの方法で盗みを犯した経験があるということは可能でしょうか。 となれば、すべての人の腕は切り落とされないといけないことになるのでしょうか。神は、男であれ、女であれ、盗人の腕は切り落とされなければならないと語っておられます。このことで議論を始め、解決策を手にすれば、それはもはや宗教ではなく、実定法になります。イスラムのシャリア(法律学)がまさにそれであります。

 

イスラムの法律学は、イスラムの印が押された実定法の集まりです。イスラムのシャリアは実定法であり、ローマ法やナポレオン法といった法律と何ら変わりありません。彼らはこれらの法律を「イスラムのシャリア」と呼ぶことでそれらに実効力を持たせ、カリフや指導者が人民を従順にならせることができるようにしています。カリフ、統治者、スルタンにはいずれにも「支配欲」という共通項があります。しかし神聖さなくして、彼らがいかに世界、そして世界の人々を支配することなどできましょうか。彼らの法は神の法です。従って、彼らはこれらの法を「イスラムのシャリア」と呼ぶのです。

 

これらの法への違反は、イスラムのシャリアへの違反と同義です。あなたはイスラムのシャリアの教えに反していることになるのです。これは深刻な犯罪です。シャリアの法とは何でしょうか。それは解釈です。「マレクによると……」。「アブ・ハニファによると……」。彼らはいずれも法を解釈した者です。アボウダボウス博士ですら、法を解釈しています。そして彼らの解釈すべてがイスラムのシャリアとなるのです。あるイスラム教徒が法律を解釈し、その解釈を本日明らかにしたとします。彼の解釈は彼が過去に示した解釈とは異なりせん。異なるのは時間の次元のみです。

 

死刑で罰することが正当化される犯罪とはどのような犯罪でしょうか。

 

いよいよ最終ページまで残すところ1~2枚となりました。私は死刑に値する国内犯罪の記録を求めました。記録の中には、最高司法協議会が死刑を承認した事案も含まれていました。私はそうした事案の一部に疑問を抱きました。最高司法協議会がどういった根拠で死刑を承認したのか理解し難く思ったのです。この場では被告人の名前を挙げることは避け、判決だけを引用したいと思います。死刑宣告を受けた被告と被害者は他の人々と一緒にワイン――神よ、我らを守りたまえ――を飲んでいました。神はこのようにいっておられます。「サタンはあなた達にワインを飲み、賭け事に興じるようそそのかすことで、あなた方が互いに敵意を抱き、憎しみ合うようにしているのだ」。確かに、飲酒と賭け事が犯罪へとつながったのです。そのことが事実として起きたのです。アルコールに酔った状態の被告と被害者の間に強い憎しみが生まれ、両者の間の誤解が原因となって、被告が被害者を刺し殺すという事態が起きたのです。

 

アルコールに酔った2人の間で生まれた誤解、ただそれだけが殺害の動機だったのです。被告には死刑判決が下されました。この事案でどうして死刑などを言い渡すことができるのでしょうか。皆さんの中に判決に合理的説明をつけることができる人はいるのでしょうか。これは第一級犯罪でもなければ、計画的犯行でもありません。被害者も被告も共にアルコールに酔った状態にあったのです。そのような状態では犯意は生まれません。彼らは友人であることもできました。このことについて合理的説明ができる判事はいるのでしょうか。

 

仲裁と意見交換:

 

[仲裁人] この場合、被害者は精神的苦痛を受けていた。

 

[指導者] 一点申し上げたい。判事の皆様方が見解を述べられる場合は、本事案で判事を務められたのか否かは明らかにせず、見解を述べるようにしていただきたい。本事案で判事または主席判事を務めていたかにかかわらず判決に対する見解を述べることはできるが、見解を述べる以上のことはされないでいただきたい。

 

[仲裁人] 私は本事案では判事は務めていないが、判決を承認した司法理事会の委員として事案に目は通している。被告(男性)と被害者(男性)は共に外国籍で、事件当時、宴会に参加していた。被告は被害者から執拗な性的いやがらせを受けていた。被害者は被告に性的暴行を加えた。被害者が性的暴行をやめようとしなかったので、被告は被害者を刺し殺した。法廷は被告に対し第一級殺人の罪で有罪を言い渡した。

 

[指導者] 被告はいやがらせを受けており、被告の行為は正当防衛といえる。どうして死刑判決なのか。

 

[仲裁人] 被告は受動的抵抗等の別の手段で自衛を図れた。

 

[指導者] その他の自衛手段は。

 

[仲裁人]  被害者は被告を憎んでいたわけではないため、被告の行為が正当防衛であるとの主張には賛同しかねる。

 

[指導者]  まさにそこが私の聞きたい点である。彼のような人物にどうして死刑が言い渡されるのか。被告は友人と共に宴に出かけ、共にアルコールを摂取していた。被告と被害者は友人関係にあり、被告の側に被害者を殺そうとする犯意はなかった。被害者は被告に性的暴行を加え、被告は身近にあった手段を用い自らの名誉を防衛した。正当防衛行為の結果、犠牲者は死亡した。正当防衛をした人物に死刑判決が下されることなどありえるのだろうか。死刑を避けるには正当防衛をすべきではないとでもいうのか。

 

[仲裁人]  被告には殺意があった。

 

[指導者]  そうだ。被告は危害からの回避を意図し、意図的に自らの防衛を図った。

 

[仲裁人] 被害者は自らの欲求を表明し、欲求の実現を意図した。法廷に提出された文書によると、被告は被害者の身体をつかんだり、被害者に強要をしたりはしていない。司法協議会は送致された判決の実質的内容を議論する機関ではないことをこの場で述べておきたい。司法協議会が検討するのは恩赦の可否のみである。協議会は犯罪や証拠に評価を下す機関ではない。

 

[指導者] 協議会の権限は。

 

[仲裁人] 法的観点からいえば、司法協議会は恩赦付与権限を有するべきではない。恩赦付与は通常は社会およびその後見人の裁量権限となっている。司法協議会の任務はあらゆる懸念事項に関し裁判官を監督することに限られている。ここでいう懸念事項とは、恩赦の可否を決定する社会の判断の評価を意図するものであり、司法協議会はこれらの事項に関し決定を下すべきではない。

 

[指導者] 誰が決定を下すのか。

 

[仲裁人] 司法協議会以外の機関であればいかなる機関でも可能。司法協議会の本質的役割は監督行為にある。

 

[指導者] 我々は大統領も、知事も、後見人も有さない。我々人民は自らを自らで統治する。我々が最高司法協議会を選んだのは同協議会が判決の承認を行うからだ。

 

[仲裁人] 人民会議は判決を承認する権限を有すべきだ。 社会的・政治的判断を評価する能力を有する機関なら、そのいずれもが判決を承認する権限を有すべきだ。

 

[指導者] 人民会議が判決を承認するというのは現実的ではない。1000人もの人々でこの問題を議論するのは難しい。彼らは年に1度会合を開く。それで問題はない。司法協議会はどういった根拠に基づき機能を果たすのか。

 

[仲裁人]  協議会は立法上の役割を担うが、協議会がその機能を実質的に果たすことはなく、協議会の立法上の役割は革命指導評議会に委任されていた。その後、同機能は人民会議の機能として位置付けられるようになった。さらにその後、最高司法協議会に委任されるようになるまで、同機能が果たされることはなかった。私個人としては、司法協議会は立法上の役割を自らの役割としては認識していないと考えている。協議会には恩赦の妥当性を判断する能力がない。協議会は管理機関として司法機関を監督し、職員の昇格・異動・任命に関する監督機能を有す。協議会による刑の否決または承認は社会にとっての利益となるのだろうか。我々はこの問いに対する解を見いださなければならない。

 

[指導者] 大統領や国王、あるいは国民の最高擁護者である人物が伝統的に統治する国を例に考えてみたい。この最高擁護者が死刑判決を承認したとする。そこで伺いたいのだが、この場合、最高擁護者はいかなる根拠を持って死刑判決を承認するのか。自らの感情の赴くままに決定の検討を行うのか。本日死刑が執行される予定であった人物がいたとして、本日なら恩赦を付与するが、明日になって自分の機嫌がよくなければ、死刑を執行させ、死刑囚の命を奪うとでもいうのか。

 

[仲裁人] この機能を果たすにあたっては、我々は通常、地方当局の支援を得ている。

 

[指導者]  質問に答えていない。まあそれでもいいだろう。あなたは私の質問に答えていないが、説明があるのなら続けても構わない。

 

[仲裁人]  司法協議会が恩赦付与権限を行使しているため、私ははっきりと、同協議会が恩赦付与権限を有するべきではないと明言した。他の機関が支援にあたる必要がある。

 

[指導者]  いずれにせよ、送致されてきた死刑判決に対し司法協議会にはどのような対応が求められるのか。

 

[仲裁人]  報復的殺人であれば、恩赦付与の資格は被害者の家族にあるため、司法協議会はそもそも嘆願を受け付けない。殺人が犯罪の場合、恩赦の付与が社会の利益につながる限りにおいて恩赦を付与する権限を司法協議会は有す。

 

[指導者] つまり、協議会は事案の検討を行うということか。

 

[仲裁人] そうではない。協議会は事案の検討は行わない。事案は最高裁判所が判決を下してはじめて協議会に送致される。協議会に認められているのは、恩赦令または執行令の発令のみである。

 

[仲裁人] 法律の専門的観点から事案を検討するのはより上位の司法機関である。最高裁判所が承認した時点で判決は確定判決となる。高等司法協議会は、確定判決について、遵守法に照らし、および同協議会の管轄範囲内において、検証を行う。先の仲裁人の説明にあった通り、宗教法による処罰の問題が存在する。宗教上の処罰事案への判決については、法による判断を下すことができないため、協議会の承認は形式的なものにすぎない。その他の刑罰に関する事案については、協議会は死刑を懲役刑にまで減刑させる権限を有すが、宗教上の処罰に関する事案における死刑判決についてはこの限りではない。これが現在の慣例である。

 

[指導者] どのようにしてか。協議会は事案の検討を行うのか。

 

[仲裁人] 協議会は裁判所ではないので、司法の観点からの事案の検討は行わない。

 

[仲裁人] つまり、事案で扱われる事実関係を検討するにあたり司法協議会が果たすべき役割はない。協議会が果たすのはあくまで専門機関としての役割である。協議会は、審理準備段階において、および最高裁判所での審理に先立って然るべき過程が踏まれたことを確保する。これは法の下で規定された協議会の役割である。すなわち、事案の専門的側面を検討し、上訴等然るべき過程が踏まれたことを確保するのが協議会の役割である。それ以外に役割はなく、その意味で、協議会の役割は非常に簡潔かつ限定的である。

 

[指導者] 理解した。

 

[仲裁人] これらの問題に関する権限は、フセイン教授が指摘する通り、特例により協議会に付与された。評議会は判決を最も正確に把握あるいは推測できる機関であるため、審理準備段階および二次段階は最終的に評議会の所掌範囲に収められた。人民会議および大衆委員会から尊重すべきこの協議会へと特権が移譲されたのもこのためである。

 

[指導者] その主張を信じるか否かが明らかとならない統治者に比べ、これはより優れた保証となる。というのも、貴殿が言及された統治者――ある国の国家元首や死刑検証の任に当たる人物がそうした統治者として考えられるが――がそした刑を承認するか否決するかは明確ではないからだ。彼は司法協議会とは異なり、然るべき過程が踏まれたことを確認するために法廷審議を検証したりはしない。そうした人物は結局のところ、刑に関する詳細な情報を把握することなく、自らの感情の赴くままに刑を承認する。例えばその統治者が国王であったとして、決定が求められる日が妻の誕生日であれば恩赦を付与し、彼の気分が優れない別の日に決定が求められるのなら死刑宣告を承認する、というようにである。しかしながら、教授がご指摘の通り、高等司法協議会の場合には確固たる保証がある。同協議会は然るべき過程が踏まれたことを保証する。健全な形で過程が踏まれている限り、同協議会が刑に関与することはない。刑は法廷の場で言い渡されたのであり、それに続く事柄は上訴手続きおよび最高裁判所に任されることになる。

 

[仲裁人] それは恩赦ではない。

 

[仲裁人] 恩赦とは、国の最高統治者の裁量権限であり、最高統治者は自らの意思に基づき恩赦の付与を決定する。それが恩赦である。今ここで論じているのは、必要に応じて行われる事案の検証である。

 

[指導者] 我々は正しい道を進んでいる。それは私が保証しよう。高等司法協議会は、健全な仕方で過程が踏まれていることを確認するため、刑事法廷に始まり上訴裁判所、最高裁判所を含むあらゆる段階を検証する。同協議会は事案に関しても、容疑者に恩赦が付与されるか否かに関しても関与するものではない。それらは法廷で扱われるべき事柄であり、こうした仕組みには大きな合理性がある。

 

[仲裁人] 高等司法協議会は必要に応じ事案の検証を行う。

 

[指導者]  いずれにせよ、私は本事案における死刑判決には承服しかねる。本判決が下されて以来、死刑に対する私の確信は消え去った。教授が説明された通り、本事案では友人関係にあった可能性を有する2人の人間が酒に酔い、一方が他方に暴行を加え、他方が正当防衛として一方を殺害した。正当防衛を行った人物に死刑が宣告されるという事実には当惑せざるを得ない。

 

[仲裁人] 本事案に関しては個別に目を通したわけではないが、同様の事案を扱ったことはある。そこでもはやり暴行を加えた人物が未必の故意であったにもかかわらず死刑宣告を受けている。法廷弁護士である私の同僚と私自身はアルコール摂取による酔いは自発的意志によりもたらされた状態であると解釈する。加害者についていえば、彼らにアルコールの摂取を強要した者がいない中で加害者はアルコールを摂取している。従って、自分たちは泥酔状態にあり、犯罪は未必の故意であったとする加害者の主張如何にかかわらず、加害者は自らの行為に対し責任を負うべきである。これは自らの意志に基づきアルコールを摂取し、自らの意志に基づき犯罪に手を染めた人物が処罰を免れることを意味する。第2の点として、犯罪の動機を指摘したい。犯罪の動機については法的観点からの検討が行われていない。盗みを例に考えてみたい。ある人が「私はその結末がどうであろうと、これから盗みを働く。なぜなら私は困窮者だからだ」と発言し、その発言は正当化できるものだと考えるとしよう。一方で、富を増やすためまたは何らかの商品を購買することを目的に盗みを企てる者がいるとする。この場合、犯罪の動機に検討が加えられていないため、2人の窃盗犯は同じように扱われることになる。泥酔状態にある人物が殺人を犯したとき、殺人犯に死刑が宣告されるのは、当人が自由意志の下でアルコールを摂取した、すなわち強制的にアルコールを摂取させられたわけではないからだ。

 

[指導者] それではあたかもアルコールを摂取した段階で殺人の第一段階を踏んだも同然だ。

 

ここで注目に値する別の事案についても言及しておきたい。被害者は(後に死刑宣告を受けることになる)加害者の放牧場で羊の放牧をした。加害者はこん棒で被害者の頭を殴り、被害者はその後、死亡した。ここでは、被害者が加害者の放牧場で羊の放牧をしたことにより生まれた誤解が殺害の動機となった。この場合、罪に問われるのはどちらか。加害者の放牧場で家畜を放牧した男か。私はこの点について判事に説明を求めた。この判じはこの審理を担当したのと同じ判事である可能性もあるが、いずれにせよ、その判事がこの場で自らが刑を宣告したかを明らかにする必要はない。我々が求めるのは彼の見解、ただそれだけである。私は、その判事が自らが刑を宣告したかを明らかにすることは重要ではなく、単に彼の見解を求めているだけであると当初から述べている。

 

[仲裁人] たとえ加害者はこん棒で被害者の頭を殴打することだけを意図したのだとしても、殺害が意図的なもので、結果、被害者の死につながったのだと法廷が判断するのでれば、殺人は計画的犯行とみなされる。その判断は法廷に委ねられている。

 

[指導者] 加害者は不公正の犠牲者である。加害者には、被告人の放牧場で羊の放牧を行った被害者を殺害する意図はなかった。加害者は自らの身または土地を守りたかった、もしくは、自らの所有する放牧場への境界線を越えた人物に報復を企てたのであり、そのため、被害者をこん棒で殴打した。殴打の結果、被害者は死亡することとなったが、殺害を意図したものではなかった。あなた方――話し手――は判事なのか。

 

[仲裁人] 敬愛なる指導者を前に失礼する。これは法律上の問題であり、厳密には、法律学で「犯意」と呼ばれるものである。法の下では犯意は瞬時に起こり得るものであり、こうした意図に基づく暴行は意図的な殺害欲求によるものとして、計画的犯行の構成要素となる。この点は、検察当局および裁判所による捜査、ならびに証拠物件および証人による証言で確認が取れている。それは事実関係、資料、捜査に関する事柄であり、従って、貴殿の質問に答えることはできない。 暴行へとつながった犯意が存在したか否かを検証するには、まず、資料と事実関係を見直す必要がある。証拠から何らかの示唆を得ることができるかもしれない。殺害に使用された武器や殺害の起きた場所が、犯意の有無を明らかにし、事件が故殺ではなく故意の殺害であるかを判断する上で一定の役割を担う場合もある。これは、検察長や弁護機関等の機関でない限り証明することが難しい、複雑で機微な事案である。

 

[指導者] 仮に事案について疑義が残り、なおかつ、そのように複雑な事案なのであれば、刑は常に容疑者に有利な仕方で下されるべきである。

 

[仲裁人] 加害者に犯行意図があり、結果として、被害者の死を招いたことが捜査過程で明確になったのであれば、それは計画的殺人の事案として扱われることになる。

 

[指導者] ここでは、ある人物が自らの羊を他人の放牧場で放牧したという事実に注目したい。放牧場の所有者はこん棒をつかみ、羊飼いをこん棒で殴打した。被害者が死亡したのは暴行現場ではなく、一定の時間が経過してからのことである。加害者に被害者殺害の隠れた動機はなく、事態が加害者の予期せぬ方向へと進展したのは非常に明らかである。被害者はそれとは知らずに他人の放牧場に羊を放った。さらに、加害者がピストルやライフル銃を使ったのであれば、それは明らかに殺害を意図したものとして理解できるが、実際はそうではない。加害者が用いたこん棒は非常に単純な用途に限られた器具であり、殺人のために考案された器具ではない。

 

[仲裁人] 我々は一連の事態を踏まえた上で、容疑者は被害者の殺害を試みた――従って、容疑者には犯意があった――と判断した。判事は犯行をあらゆる角度から検討するとともに、被害者の死亡につながった周辺状況も検証する。

 

[指導者] 加害者は自らが所有する放牧場に立ち入り羊を放牧した人物に報復を企てた、または、その人物を罰することを意図したのであり、殺害を意図したわけではない。加害者がごく普通の人であること、結果として暴行が被害者の死につながったものの、そこに殺害の意図が大きくあったわけではないことは明らかだ。

 

[仲裁人] 死亡と故意の殺害または意図的な殺害を混同すべきではない。我々は誰かと喧嘩をすることがあったとしても、喧嘩相手の殺害を意図することはない。それでも、相手を殴打することで、結果として、相手が死亡するというのは考え得る事態である。

 

[指導者] これまで検討した第1と第2の事案は、正当防衛すらできないという考えを人民の間に生むものである。第1の事案では、宗教・道徳上の潔白を保ち自らの名誉を防衛した人物に死刑が宣告された。これでは、誰も自らの名誉を守ることができなくなる。第2の事案では、自らの土地を守ろうとした人物に死刑が宣告された。同様に、これでは、誰も自らの土地を守ることができなくなる。すなわち、こうした事案がある限り、誰も自らの身を守ることができなくなる。

 

[仲裁人] 計画的意図は存在するはずである。窃盗であれ、確執であれ、特に宗教上の処罰に値する問題は上訴の過程を経ることなく最高裁判所に直接訴えられる。最高裁判所は持ち込まれた事案のあらゆる側面を検証しなければならない。犯意の存在は然るべき手続きを経て証明されるべきものであり、法廷での主張に偽りがあってはならない。法廷は健全な仕方で構成されるべきで、手続きが停滞するようなことがあってはならない。最高裁判所は上訴案件の半数を審理し、それらの上訴判決は様々な理由により否決されているとした統計がある。413件の窃盗判決のうち、300件は否決された後、下級裁判所へと戻されている。極刑判決については半数が下級裁判所へと戻されている。法に従い刑を言い渡すのであれば、貴殿が言及された事案は検討の対象となるべきである。本事案を扱う法廷は、実際の殺害に先立って容疑者の側に被害者殺害の意図があったことを証明しなければならない。

 

[指導者] 最高裁判所の長として、本件についてどうお考えか。

 

[仲裁人] ここでは正当防衛が問題となっているが、正当防衛が正当化されるにはいくつかの要件を満たす必要がある。最も重要な要件は、不正が存在することである。不正を孕む状況は当事者にとって直接的なものでなければならない。死刑判決を免れるには不正を孕んだ直接的状況が必要となる。本事案にあてはめて考えてみる。当事者が動物に直接暴行を加えたのだとすれば、それは自己防衛として認められるだろう。しかし羊の飼い主に暴行を加えた場合は自己防衛の主張は認められない。直接的脅威がもはや存在していなかったからである。そこに持続的かつ直接的脅威が存在しない限り、当事者の取った行動は自己防衛ではなく攻撃とみなされる。私はこれは健全な刑だと考える。というのも、仮にこの人物が正当防衛を図るのだとすれば、攻撃の対象は脅威の根源、すなわち羊となるはずだからである。仮に羊に攻撃を加えていれば、この人物に死刑判決が下されることはなかっただろう。羊飼いに攻撃を加えた時点で、自己防衛を正当化するための要件は無効となっている。最も重要な要件とは、脅威が存在することである。

 

[指導者] 貴殿は学生か。

 

[仲裁人] ファーテハ大学法科大学院の3年生である。

 

[指導者] 貴殿は自らの専門に強い関心を持ち、真剣に勉学に打ち込んでおられるようだ。私が関心を持った別の事案を紹介したい。事実関係としてはこうなる。容疑者は自らが乗車する自動車の車内の狭い空間に麻薬を隠し、販売目的でこれらの麻薬を密輸した。容疑者は麻薬所持の疑いで捕まり、押収された麻薬は司法機関の検査にかけられた。結果、麻薬は数千キロに相当するハシシであることが明らかとなった。捜査の過程で、容疑者はこれまでも国内全土に麻薬を密輸していたことも明らかとなった。刑事法廷は容疑者にかけられた容疑すべてについて有罪とし、容疑者に死刑を宣告した。ここで容疑者を処刑することに意義はあるのか。犯行に動機はなく、容疑者は単にハシシの売買に関与しただけである。

 

[仲裁人] リビアには麻薬法がある。同法は、麻薬使用者の増加に歯止めをかける取り組みと足並みを揃える形で改正され、麻薬関連案件での死刑が認められるようになっている。もちろんこれは罰則措置であり、この事案に関しては、下された判決が宗教上の判決には該当せず、係る判決に該当する事態によるものでもないため、高等司法協議会に減刑の権限が与えられている。

 

[指導者] 罰則措置であると主張する根拠は。

 

[仲裁人] 宗教上の法を犯したわけではないからだ。

 

[指導者] 貴殿は麻薬を宗教事案として扱おうとしている。

 

[仲裁人] そうではない。麻薬法は個別の法律であり、死刑判決は「麻薬の密輸」という特異な状況に適用された追加措置である。

 

[指導者] 宗教上の罰と罰則措置は共にイスラム法で規定されている。

 

[仲裁人] その見解には同意しかねる。我々がこれを罰則措置と位置付けるのは、それが宗教上の罰の範疇には入らず、報復という形態をとらないためである。すなわち、報復および血に染まったカネを規定する法律は適用されない。そうした事案については高等司法協議会が権限を有する。

 

[指導者] 高等司法協議会に委ねられる前に裁判所がこの事案に目を向け、死刑判決を下した理由は。

 

[仲裁人]  麻薬法に関しては、第7法律(1990年)が罰則措置(禁固刑および終身刑)を定めている。同法は麻薬が大量破壊兵器と位置付けられた後に改正された。刑法第169条によると麻薬犯罪は国家反逆罪である。罰則措置は3つの項で規定されている。

 

第1項では麻薬使用に対する禁固刑を定めている。麻薬の密輸については、第2項で終身刑が、第3項で極刑がそれぞれ定められている。ここでの容疑者は大量の麻薬を国内に密輸した。密輸した麻薬すべてについて彼らが自分たちだけで使用することを意図していたとは考えにくい。そのため裁判所は容疑者に麻薬密輸の意図があったと判断し、第169条第3項の規定に従い刑を宣告した。第169条第3項は、国家利益に反する賄賂を受け取った外国人および国家に反逆した政治家に適用される条項であり、いずれの犯罪に対しても重刑(刑の重さは罪の大きさに応じて決定)が課されることになる。そして第3項では死刑を義務化している。

 

異論がなければはじめの論点――殺意なき殺人、致死的暴行犯罪、故殺――に戻りたい。これらのケースには具体的共通項がある。すなわち、それが運転手の側の不注意による自動車事故によるものであれ、こん棒で殴打された結果の死亡事故(事件)であれ、いずれの場合も被害者に危害が加えられているという点である。これは加害者の側に殺害の意図が存在していたか否かに無関係の事実である。自動車事故についていえば、たとえそれが偶発的事故であったとしても、事故は運転手の側の不注意かつ無謀な運転および法令順守意識の欠如の結果起きたのであり、そうした行為はそもそも善に反している。第63条は偶発的犯罪に罰則措置を求めている。一回の殴打と、複数回殴打したり刺したりすることは別である。殺意の有無はその回数と使用器具で決定付けられる。

 

[指導者] 有罪宣告を受けた人物と、同氏のいとこであり被害者の子供でもある人々の間で殴りあいの喧嘩が起きた。被害者は自らの子供達と甥の間の喧嘩を止めようと仲裁に入り、容疑者にナイフで刺され、出血死した。ここでは容疑者と容疑者のいとこの間で起きた喧嘩をとめようとした被害者の介入が殺害動機となった。なぜ容疑者に死刑が宣告されるのか。殺害は意図的なものではなかった。これは身内での争い事であり、殺害に使われたのは身近にあった道具である。本事案を扱った判事に説明を求めたい。

 

[仲裁人] 喜んで説明しよう。意図的殺人を扱う事案では犯意が最も重要な要素となる。加害者の側に被害者殺害の意図があったのかを検証することが重要となる。加害者が被害者の殺害を意図していたことはどのように証明できるのだろうか。我々は最高裁判所が示した数々の見解を基に証明することができる。どういった見解かは検察当局による捜査の段階で明らかにしたい。殺害に使用されたのがナイフなのであれば、それはこん棒が使用された場合とは状況が違う。同様に、致死的部位を殴打するのと、非致死的部位を殴打するのでも状況は違う。そうした状況を明らかにする証拠や証言を基に犯意の有無は決定できる。犯意の存在が確認され、被害者の死亡という結果が生まれたのであれば、係る事案で扱う犯罪は意図的殺人もしくは致死的暴行となる。致死的暴行事件と意図的殺人事件の相違点は殺害意図の有無にある。殺害意図が存在する場合は、容疑者の行為は意図的殺害に該当し、そうした意図が存在しない場合は、致死的暴行になる。では殺害意図の有無はどのように証明するのか。我々は検察当局による捜査の段階で証明する。また、殺害に使用された器具や殺害現場等の事実関係を示す指標も活用する。

 

[指導者] 説明に感謝申し上げる。

 

[仲裁人] 敬愛なる指導者、ファーテハ大学にようこそお越しくださった。もしよろしければ、重要な理論上の争点である「後見人」の概念について改めて論じさせていただきたい。閣下は本理論の擁護者であられ、本理論については私より、より効果的な説明をされることだろう。私はリビア社会における「後見人」の概念を研究している。社会の憲法であるコーラン、また、「汝らの中で権威を有する者たちよ」との神の御言葉――ここで神は「者たちよ」と単数形ではなく複数形で語りかけておられることに注目していただきたい――に照らし、私はそれがいかなる者であろうと「後見人」を構成するのは単一の人物でも単一の集団でもないとの結論に達した。権威とは単一の集団に委ねられるものではないことを考えれば、高等司法協議会は権限を有する機関とはならない。権限は人民会議の召集を通して付与されるべきものである。重要かつ重大な条約の批准には人民会議の承認が必要となるのと同じように、死刑判決および正義の適用に関しても人民会議の承認が必要となる。敬愛なる指導者のご清聴に感謝したい。

 

[指導者] 容疑者が計画的に妻を殺害した事案がある。本事案では容疑者は寝ている妻の頭を斧で一度切りつけ、妻をタオルで窒息させた。妻の死亡後、容疑者は妻の死を確実なものとするため斧でさらに二度妻を切りつけている。 妻の浮気を疑ったというのが容疑者の殺害動機である。容疑者は盲人である点も付け加えておきたい。当容疑者に死刑宣告を下した根拠は。

 

[仲裁人] 閣下、私は大学教授で判事ではない。刑事事件は民事事件とは異なる。民事事件の場合、判事には証拠文書の公式性・非公式性を問わず提出された証拠に基づき判決を言い渡す義務がある。他方、刑事事件の場合は、判事が容疑者の犯行動機を評価し、自らの判断を下すにあたり、判事の経歴や文化、生活環境が一定の役割を担っている。容疑者が妻を殺害したという事実に重きを置く判事ならば厳しい判決が言い渡されるのかもしれないし、そうした嫌疑が考慮に入れられないのであれば、より軽い刑となるのかもれない。刑事事件の場合には、容疑者が殺害現場に居合わせたことを裏付ける証拠や容疑者に犯意があったことを示す証拠等、容疑者の有罪を支える可能性のある証拠が――その立証可能性の大小を問わず――法律の観点からは存在する。判事の心性や個人的背景、学術的関心、性格に関するあらゆる事柄は一定の役割を果たす可能性もある。

 

多くの有罪判決について閣下の見解と判事の見解が異なるのはこのためであり、事案の中には判事の間でも意見が分かれるものがある。というのも、刑法は判事に対し、個々の事案について、有罪判決を下す能力と相当程度の裁量を認めているからである。判事の下した有罪判決に対する上訴手続きを定める法律は、判事の個人的思想や有罪を下す判事の判断力を考慮に入れたものである。第二級殺人事件を扱う法廷や最高裁判所はその管轄権限により判事の判断を法的課題としてみなすことが認められているため、こうした有罪判決には至らない可能性もある。法概念の解釈や、容疑者が犯罪に関して責任を負うべきと判断した範囲について判事が批判されることもある。有罪判決を下すにあたっては、判事は自らの文化的・思想的背景(さらには政治的信条に関するものも含め)に関係するあらゆる事柄を総動員する。国家安全保障や社会にとっての脅威となるような刑事事件においてさえも柔軟な判決が下される場合がある。これは、容疑者の行為は深刻な犯罪には該当しないと判断する判事がいる一方で、容疑者は社会に対する深刻な罪を犯したと判断し、より厳しい判決を下す判事がいるためである。発言の機会に感謝申し上げる。

 

[仲裁人] 1つ明確にしておきたい点がある。刑法に関連する事案を扱う法廷は特異な性質を有する。刑法なくして犯罪も刑罰も成り立たない。判事には事実を明らかにするという点においては上限なき権限が付与されているが、判事は同時に法典および刑法の制約下に置かれている。個別の犯罪や刑罰にはそれを規定する個別の法律が存在する。加えて、法律は特にアルコールや殺人に絡む状況についても定めている。法によれば、アルコールの摂取も殺人も共に重罪であり、これら2つの重罪を同時に犯す者は死刑に値する。閣下を前にさらにいわせていただけるとするならば、法廷は3~5人の弁護士で構成されているという事実、さらに、弁護士を有さない被告人の出廷は厳に禁じられているという事実に鑑みれば、法廷の下す判断は義にかなったものであるといえる。裁判所の判断は仮定や仮説ではなく確実性と確信性に基づいて下される。さらに死刑判決は容疑者の立会いの下、最高裁判所で検証されることが義務付けられている。従って、偽りなき正義はほぼ絶対的な形で確保されている。そこに不透明性は一切なく、然るべき過程は十全に踏まれている。ご清聴に感謝したい。

 

[指導者] 私が紹介した事案について見解を述べることのできる判事はいるか。この盲人に死刑判決が下された理由を先の教授や判事の説明を掘り下げることなく明らかにできる者はいるか。そこの学生諸君はどうか。

 

[仲裁人] 私は学生ではなく、検事総長室に勤務する者である。犯意は罪が犯された方法から推測することができる。報復および血に染まったカネを規定する法律が制定された当時、立法者はイスラム教のシャリアから影響を受けていた。するどい器具や先が尖った器具を使用しての殺人は意図的な殺人であるという点に異論を挟む判事はいないだろう。ナイフで刺すこと、斧で切りつけること、こん棒で複数回殴打すること――これらはいずれも犯意を明確に裏付ける行為である。判事はこのことを自らの捜査の過程で明らかにし、そうした結論は文書に記されている通りである。事件に関する抽象的な説明を単に聞くだけでは犯意の有無を判断することはできない。とりわけ殺人にナイフや武器、こん棒が使われ、暴行が複数にわたり加えられたような事案では、判事が犯意の存在を結論づけていることを確実にするため各種文書を検証する必要がある。殺人に使用された道具に関するこうした要素に照らし判事が死刑判決を下した場合も考えられる。

 

[指導者] 大切な点を明確にしてくれたことに感謝する。貴殿の説明により、事実関係の枠外にある要素の存在が明らかとなった。例えば、考慮に入れるべき点として、するどい器具や先が尖った器具の使用が挙げられる。

 

[仲裁人] するどい器具や先が尖った器具を使用しての暴行は通常、殺人につながるというのが学者の見解であった。殺害に使用されたのがするどい器具や先が尖った器具ではない場合は、暴行回数や犯罪時の加害者の行動から殺人の意図を推測することができる。犯行現場に居合わせたわけではない判事は文書を検討し、犯意の有無を検証する。閣下が最後に挙げられた事例――通常は死刑判決に該当しない事例――についても同様である。従って、犯行の動機は共犯によるものであると考えられる。加害者は共犯者の扇動により犯行に及んだからである。2~4回の殴打について心理学の観点からいえば、数百回相手を刺したとしても、その人物が極度の精神的ストレスを経験している場合は、殺意が認められないこともある。係る人物は殴打した部位や回数を認識していない。仮に3~4回刺されたことで被害者が死亡した場合は、そこに犯意を認めることができる。率直に申し上げて、本件に関しては納得がいかない。これまでの発言を聞いている限り、犯意は瞬時に発生する要素として定義されている。となると、意図のあるあらゆる犯罪は意図的だということになるが、そうした解釈は意図したものでないことは我々の共通の理解である。容疑者は犯行を熟考したわけでも、事前に計画したわけでもない。犯行を手配したわけでもない。酒が入った状態で喧嘩をする2人の人間の間で事態が急展開することはあり得る話である。そうした状況で殺意があったと主張することには納得がいかない。

 

[指導者] まさしくその通りである。私も納得がいかない。

 

[仲裁人] 閣下に平安が宿るよう祈念する。意図的な殺人の定義について発言するのは重要なことである。犯意には単純な犯意と計画的な犯意がある。意図的殺人を扱う事案で必要なのは、瞬時に起こる単純な犯意のみである。本講義を聴講している私が近所の住民と口論を起こし、相手を殺害するとしよう。私は相手を殺害したいという欲求を抱き、その欲求を相手に向ける。これが意図的殺人を扱う事案における犯意である。私は意図的殺人の罪に問われ、報復および血に染まったカネを規定する法律の下で死刑宣告を受けることになる。さらに、計画的殺人であった場合、報復および血に染まったカネを規定する法律が制定される以前の古い法律の下では、より重い刑が宣告されていたことになる。単純な殺意に基づく犯行には従来、終身刑、または単なる禁固刑が言い渡されていた。一方、計画的な意図的犯行に対しては、より重い刑、時には死刑が宣告されていた。これは計画的殺人の場合、最終的に相手を殺害する前に私は時間をかけて考え、物事を天秤にかけ、様々な犯行の可能性を検討しているからである。すなわち私は正しい決断を下す機会があったにもかかわらず、重大な過ちを犯したのである。

 

閣下ご指摘の最後の事案については、被告人に死刑や終身刑ではなく禁固刑が言い渡される条件が刑法第70条(名誉を守るための犯行)に記されている。そこではこのように記述されている。「妻、姉妹、または母親の姦通行為または違法な性行為を予期せぬ形で発見し、自らの名誉を守るために係る女性を即座に殺害した男性に対する罰は禁固刑とする」。リビアの国内法では、禁固刑は1日~3年の服役と定められている。判事は自らに付与された裁量権限により、自らの裁量で禁固刑を言い渡すことができる。

 

本事件では挑発行為は確かにあったものの、先の条文が適応できる条件または夫が係る条文から利益を得るための条件は満たされていない。というのも条文には「予期せぬ形で」という要素が含まれているためである。「予期せぬ形で」という要素は、耳にした行為ではなく目で見た行為により形作られるものであり、目で見た行為は、立法者が減刑措置を講じるにあたり念頭においた重度の挑発行為の構成要因としても考えられる。本事案では被告人の男性は妻を殺害する意図を有しており、意図的犯罪の要素が存在している。従って、被告人には先の条文の規定を適用することはできない。これらの事件が報復法の制定以前に起きたのかは把握していない。報復法制定後の事件であれば、被害者の血縁関係者が訴えを取り下げない限り、被告人に死刑判決が下されるのは確実である。報復法制定前であれば、最長刑期であれ最短刑期であれ、刑期は判事の裁量で決定される。

 

[指導者] 説明に感謝するが、そうした見解にはやはり納得がいかない。運転手として自営業を営む男性が容疑者となった事案がある。被害者は容疑者および容疑者の家族を罵り、侮辱し、容疑者を挑発した。容疑者は銃を購入し、犯行の計画を立てた。容疑者は被害者に近づき、被害者に向け2発発砲した。容疑者は被害者に付き添っていた人物の意図的殺害も試みた――ただし計画的にではない――が未遂に終わっている。被害者は容疑者および容疑者の家族を言葉で攻撃しており、被害者が容疑者に対し行った挑発行為がここでの動機となっている。

 

[仲裁人] ここで考え方を整理できれば、問題解決策を手にしたも同然なのかもしれない。犯意にはいくつかの種類がある。即時のまたは直接的な意図については挑発行為があろうとも正当化することはできない。ラジャブ博士のご発言の補足となるが、犯意は怒りと共に瞬時に発生する場合もある。これが刑法でいう即時のまたは直接的な意図であり、係る意図を持って犯行に及んだ容疑者が処罰を免れることはない。従って、仮に挑発行為があったと主張したとしても、殺害は犯意のある意図的行為とみなされる。これが即時のまたは直接的な意図である。終身刑を定める刑法と報復法が異なるのはこのためである。ただ本事案については、「意図」、「計画的意図」、「計画」等々の間に違いは存在しない。新法は「即時のまたは直接的な意図」と「計画的意図」を同格に位置付けている。一方、旧法はこれら2つの意図を区別している――「即時のまたは直接的な意図」に基づく犯行には終身刑が下され、挑発行為の有無は減刑要因とはならない一方、「計画的意図」に基づく犯行には死刑が下され、係る犯行は殺害を計画的に意図した殺人と定義付けられている。挑発行為や怒り等の結果生まれた即時のまたは直接的な意図の有無にかかわらず、本事案で扱う意図および新法が規定する意図は死刑の対象となり得るものである。

 

[仲裁人] 閣下に平安が宿るよう祈念する。意図的殺害の犯行または犯意に関する諸規制の一般的性質を構成する道義的要素については違いは存在する。直接的犯意とは加害者に犯罪の意図がある状況を指す。教授が指摘されたように犯行により複数名の命が奪われる可能性もある。自らの犯行の結果に関するそうした可能性を受け入れた上で犯行に出ることも考えられる。これらの法律は包括的で意図的殺害であろうと、喧嘩であろうと、あらゆる犯罪を網羅するものである。それがいかなる性質のものであろうと、また法的にどう分類されるかにかかわらず、意図的犯行では犯意が常に道義的要因として必要となる。犯行が意図的殺害であれ、喧嘩であれ、道義的要因は決定されなければならない。閣下が挙げられた事案はいずれも、長期的議論を必要とする多くの可能性を含むものである。これまで十分に議論されてこなかった喧嘩を例に考えれば、多くの人々が居合わせる中で1人の人間が仲裁のために喧嘩に介入している。閣下の説明によれば、この介入行為も喧嘩という犯罪の構成要素となる。

 

ある1人の人間が仲裁のために喧嘩に介入した結果、複数名の命が奪われる結果となった。犯行当時加害者に被害者殺害の意図がなかったことを前提とするなら、喧嘩および喧嘩の結果生じた死亡事件(事故)を掌る条文は存在する。

 

多くの問題について多くの仮説が立てられている。道義的側面は非常に機微な問題で、判事が状況や事実をどう評価するかによるところがある。この件に関しては多くの議論が沸き起こるのかもしれないが、特に計画的犯行については合意された一般規制が存在する。報復および血に染まったカネを規定する法律によると、加害者の家族は訴えが取り下げられた場合被害者に対し損害賠償金を支払わなければならない。この法律の下では犯行は意図的と判断されなかったため、殺意に関する問題はここでは挙げられなかった。他方、この犯行には別の法律が適用できる可能性もあり、そうした状況下では犯行が致死的暴行や偶発的殺害等として判断されることもある。ご静聴に感謝する。

 

[仲裁人] 神の名に誓って、私はジャンゾール高等研究学院で学ぶ生徒だ。この問題を解決するためには刑法案を人民会議に提出すべきだと考える。刑法第1条には「法典で定められていない犯罪・処罰は犯罪・処罰ではない」とあるが、この条項は改訂されるべきである。判事が司法制度の中で活動する限り、リビア国内法を適用する判事を非難するつもりはない。仮に判事の判決が違法である場合は判決は上訴の対象となり、有罪判決は違法となる。すなわち法律で定められていない犯罪・処罰は犯罪・処罰ではなくなる。遵守すべき法の枠外にある刑を判事が有罪人に宣告するのであれば、この判事は即、危険人物として認識される。条文が前例を反映したものとなるよう刑法第1条は改正する必要があると考える。

 

[指導者] となれば「法典で定められていない犯罪・処罰は犯罪・処罰ではない」という条項は取り消さなければならない。

 

[仲裁人] そうなれば判事の裁量範囲は大きくなる。というのも、その条項が取り消された場合、判事が適用できる処罰は法典で定められたもののみに制限されることになるからだ。

 

[指導者] 刑法第1条の条項を削除するとして、判事はいかに判決を下すのか。

 

[仲裁人] なぜ死刑判決が下されたのか。それは判事に選択の余地がなかったからだ。死刑は法が定める処罰である。判事を非難することはできない。

 

[指導者] 条文なくしていかに刑を宣告するのか。

 

[仲裁人] 判事は改訂が必要となる優先条文を実施する義務を負うことになるため、判断は判事に任されることになる。

 

[指導者]  貴殿は優れた分析家だ。

 

[仲裁人] 敬愛なる指導者が指摘されている条項「法典で定められていない犯罪・処罰は犯罪・処罰ではない」を削除すれば、事実上犯罪は存在しなくなるので、必然的に処罰も必要なくなる。

 

[指導者] いや、そうはならない。彼は知的人物であり、そうしたことを意図したわけではない。

 

[仲裁人] 報復法の成立後に問題が発生した。すべての問題や疑問はこの法律の成立を契機に沸き起こったのであり、トリポリの主席検事が指摘されたように、法律成立以前は正常な状態が保たれていた。我々は法制の標準化に取り組むべきであり、閣下の前にある刑法案はこうした諸問題を念頭に、問題を最大限回避するために策定されたものである。

 

[指導者] 加害者と被害者の間で家族ぐるみの争いが起きた。被害者が加害者にナイフで暴行を加えた後、加害者は被害者からナイフを奪い取り、被害者を二度にわたり――1回は腹部、1回は胸部――刺した。この犯罪の動機をみる限り、殺意はみあたらない。加害者に死刑宣告が下された根拠は。

 

[仲裁人] 神の名に誓って申し上げる。法学論争に発展させる意図はないが、法廷にとっては報復法よりも旧刑法の方が状況ははるかに望ましいものであった。これは事実である。刑法は計画的殺人および意図的殺人の構成要件を定めており、これらの殺人犯には終身刑が認められていた。ところが報復法の成立を受け、死刑が処罰として定められるようになった。意図的に殺人を犯した人物に対してはすべて、報復措置として死刑が認められている。現在遵守されている報復法にはいくつかの欠陥がある。これは既に議論したことであり、同法は改訂されるべきである。刑法では死刑に厳格な条件が付され、計画性の存在が死刑宣告に不可欠な要素となっていた。しかしそうした条件は現在すべて取り消しとなっており、殺人であればいかなる場合でも死刑判決が即時認められるようになっている。意図の有無は条件に定められているが、意図とは心的事象であるため証明が難しい。報復法は改訂されるべきだ。

 

[指導者] この人物に死刑宣告が下された理由は。博士はどう考えるか。

 

[仲裁人] 手元の概要を読んでいただけるとこれら疑問が沸き起こる理由を十分に御理解いただけるものと思量する。失礼ながらこれらの質問に包括的に答え、判決は遵守法に則ったものであると述べさせていただいた上で、またこれまでの事案を総合的にみる限り、答えが隠された状態で会話をこのまま継続させることはできないと考える。すべての疑問に対する答えは事案資料に完全に記されているように思える。動機に関するすべての条件は存在し、法廷は法律を適用する。それでも閣下にはこれらの質問を投げかける権利がある。

 

[指導者] 最高裁判所長である貴殿には、自身の下に持ち込まれた判決を擁護する権利がある。

 

[仲裁人] 私が申し上げたいのは各事案を検証し、そこに答えを見つけ出す必要があるということだ。先の教授が指摘された通り、容疑者は刑事裁判にかけられ、容疑者の弁護人は本人が適切と考える仕方で容疑者を弁護した。この事案は最高裁判所にまで持ち込まれ、同裁判所では判決のあらゆる側面が検証された。そこに過ちがあったかもしれないということを否定しているわけではない。私が主張したいのは、本事案は再検証されるべきであり、そこに我々の質問に対する答えが示されているかもしれないということだ。

 

[仲裁人] 閣下が仰ろうとしていたのはそういうことではないはずだ。法廷があらゆる段階で然るべき過程を遵守していたこと、および、各事案で証拠が存在したことに関しては、確信を持つことができよう。閣下が知りたいのは、事案が一般的にどう処理され、何らかの問題や障害に突き当たったことはあるかということである。閣下は未来が変わる可能性について我々に警告を発しておられるのだ。貴殿は既存の遵守法という観点で議論をされたが、法自体が問題を抱えている可能性はあり、あるいは、法自体が問題を作り出す可能性もある。閣下が知りたいのは、どこに問題があるのかという一点に尽きる。

 

[指導者] その通りである。我々は現在、新刑法の検討を進めており、把握しておきたい点がいくつもある。不均衡はどこで発生し、そもそも不均衡とは何なのか。

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